上皇が隠岐で詠んだ和歌に締め付けられる思い
島での上皇は、和歌の創作に精力的に取り組んだと伝えられている。島で『遠島五百首』などの歌集を編んだと言われる。
上皇が島で詠んだ代表的な作に
〈我こそは 新島守よ隠岐の海の 荒き波風 心して吹け〉
がある。隠岐にわたってきた自身を島の守り神とし、自分が来たのだから、荒い波風をもっと穏やかにせよ、と命じているのである。
京にあれば、すべて自身の意向に沿って物事が進んでいたであろうが、配流先ではそうもいかない。
そして強烈な「望京」の念が込められた歌もある。
〈あれば 萱(かや)が軒端(のきは)の 月も見つ 知らぬは人の 行く末の空〉
人の命にも、時にも限りがある中で、粗末なかやぶきの住居から、月を眺めている。人間の行く末はわからないものであると嘆息しているのである。
上皇の心情を思えば、胸に迫りくるものがある。
後鳥羽上皇配流から111年後に隠岐に配流された後醍醐天皇は、時勢に扶けられ島から抜けだすことができた。だが、後鳥羽上皇は亡くなるまで京都への還御が許されるのを待ちながら、許されず、隠岐で崩御されたのである。
構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり