はじめに-織田信長とはどんな人物だったのか

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場している織田信長(おだ・のぶなが、演:小栗旬)は、戦国の世を終わらせ、「天下一統」(てんかいっとう)を目指した武将です。のちに天下人となる豊臣秀吉(演:池松壮亮)、そしてその弟・秀長(演:仲野太賀)が頭角を現すきっかけを与えた人物でもありました。

『豊臣兄弟!』では、革新的な戦略と非凡なリーダーシップを持つカリスマ武将として登場します。信長は秀吉の才能をいち早く見抜き、出世の道を開いただけでなく、秀長の能力にも注目していました。信長のもとでの経験が、後の豊臣政権を支える礎となったのです。

この記事では、信長がいかに時代を変え、彼の「革命」が豊臣政権にどうつながっていったのかを、エピソードを交えて深掘りしていきます。

織田信長
織田信長

織田信長が生きた時代

信長が生まれた天文3年(1534)は、「下剋上」の嵐が吹き荒れる戦国時代の真っ只中。足利将軍家の権威は地に落ち、各地の大名が力で国を奪い合っていました。

尾張の一豪族にすぎなかった信長は、こうした不安定な時代を「変革のチャンス」と見抜き、既成秩序を破壊して新たな価値を築こうとしました。

彼の行動原理は、「血筋ではなく実力」「伝統よりも効率」「信仰よりも現実」。この徹底した合理主義が、やがて「魔王」と呼ばれるほどの恐れと革新を生むのです。

織田信長の足跡と主な出来事

織田信長は天文3年(1534)に生まれ、天正10年(1582)に本能寺の変で自害。49年の短い生涯の中で、常識破りの行動を重ねながら、日本の近世化を一気に推し進めた人物です。

誕生から青年期|「うつけ者」の仮面と早熟な頭脳

織田信長は、天文3年(1534)、尾張国那古野城(現在の愛知県名古屋市中区)に、織田信秀の嫡男として生まれました。幼名は吉法師。織田家は、清洲城を拠点とする織田信友の家系とは別筋の分家で、当時は大きな勢力ではありませんでしたが、父・信秀は傑出した武将であり、経済力と軍事力を背景に尾張国内で勢力を拡大していきました。

信長は幼少期から奔放な言動で知られ、礼儀作法や格式を重んじる当時の武家社会では異端視される存在でした。町人風の服装で城下を歩いたり、突飛な振る舞いを見せることから、「尾張の大うつけ」(常識外れ)と呼ばれていたと伝えられています。

しかし、こうした言動は単なる奇行ではなく、「形式よりも中身を重視する」という信長独自の思想の現れだったとも考えられています。若くして既存の価値観に疑問を持ち、新たな秩序を目指す兆しがすでに見えていたのです。

信長が初陣を飾ったのは天文16年(1547)、わずか14歳のとき。若くして戦場経験を積み、着実に力をつけていきました。その後、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤道三の娘・濃姫(のうひめ)と政略結婚を果たします。斎藤家は信長にとって将来的な重要な同盟先であり、この婚姻が彼の立場を一層強固にしました。

天文20年(1551)、もしくは天文21年(1552)、父・信秀が急逝し、信長が若くして家督を継承。しかし、一族の対立に今川氏との対決という大きな課題が残されていたため、家中は大きく動揺します。重臣たちの中には、信長の行動を軽視し、彼を支持しない者も少なくありませんでした。

そこで立ちはだかったのが、弟の信行(のぶゆき)でした。

清州城前の公園にある織田信長像
「桶狭間の戦い」に出陣する姿を模した銅像で、桶狭間の方向を見据えている

実弟・織田信行を討つ|非情の決断

信長と信行は、尾張をめぐる覇権争いの中で激しく対立します。信行は重臣・柴田勝家らを巻き込み、クーデターを企てますが、信長はこれを鎮圧。赦免と見せかけたのち、再度謀反の兆しがあった信行を、ついに自らの手で誅殺しました。

この出来事は、信長の非情さと組織内統制への強い執念を象徴する事件として知られています。「身内といえども、逆らう者は容赦しない」、それが信長の覚悟でした。

「桶狭間の戦い」(1560)で一躍有名に

織田信長がその名を全国に知らしめるきっかけとなったのが、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」でした。

駿河・遠江を支配していた名門・今川義元が、2万を超える大軍を率いて尾張へ侵攻。対する信長は、わずか3千の兵力でこれを迎え撃ちました。圧倒的な兵力差にもかかわらず、信長は奇襲戦術を決断。地形と天候を巧みに利用して義元本陣を突き崩し、見事な勝利を収めます。

この戦いののち、今川氏の支配から脱した三河の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を締結。尾張と三河に安定した連携体制を築いたことで、信長の勢力基盤は一気に強化されていきます。

以後、信長のもとには多くの有能な人材が集まり、その名声は瞬く間に戦国全土へと広がっていくのです。

桶狭間古戦場公園にある織田信長・今川義元像

美濃を平定、「天下布武」へ|秀吉・秀長が支えた転換点

桶狭間の戦い後、信長は次なる目標として、美濃国の攻略に本格的に乗り出します。要衝である美濃を制することは、尾張から畿内へ進出する上で避けて通れない課題でした。

その拠点となったのが、木曽川沿いの墨俣(すのまた)です。ここに築かれた砦は、短期間で完成したと伝えられ、「墨俣一夜城」の逸話で知られています。この築城を任されたのが、木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉でした。補佐役として動いたのが弟の秀長で、兵站や調整役として実務面を支えたと考えられています。兄弟の働きは、信長の美濃攻略を大きく前進させました。

現在の墨俣一夜城

やがて信長は、美濃の支配者・斎藤龍興(さいとう・たつおき)を追放し、稲葉山城を手中に収めます。信長はこの城を「岐阜」と改め、ここを新たな本拠地としました。

現在の岐阜城
金華山(きんかざん)山頂に位置し、難攻不落の城としても知られる。

そしてこの頃から用い始めたのが、「天下布武」(てんかふぶ)の印です。信長が、天下一統を明確に視野に入れていたことを示しています。美濃平定は、その構想を現実のものとするための大きな一歩でした。

永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて上洛します。行く手を阻もうとした近江(現在の滋賀県)の六角義賢(ろっかく・よしかた)を撃退し、京都へ入ることに成功。義昭は第15代将軍に就任し、信長は事実上、畿内の実権を掌握する立場となりました。

もっとも、これで天下が安定したわけではありません。戦国大名や石山本願寺など、信長の急速な台頭を警戒する勢力との対立は、ここからさらに激しさを増していくことになります。

比叡山焼き討ち|苛烈な信長、宗教と戦国を制す

信長の名を大きく知らしめたもう一つの事件が、元亀2年(1571)の「比叡山焼き討ち」です。

比叡山延暦寺は、かねてより強大な宗教勢力として全国に影響力を持ち、各地の大名と結びつくことで、信長にとっては政治的な障害となっていました。延暦寺が敵対する武将(浅井・朝倉)に加担したことを受け、信長は武装した僧兵のみならず、女子供を含む住民ごと焼き討ちを断行。多くの命が奪われました。

信長の宗教に対する姿勢は明快で、「政治の障害になるなら容赦なく排除する」というもの。高野聖 (こうやひじり) 斬殺 (ざんさつ) 、一向一揆 (いっこういっき) の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しませんでした。

最も手強かった本願寺との石山戦争にも、ついに終止符を打ちます。天正8年(1580)、和睦により顕如(けんにょ)を退去させ、石山本願寺は信長の支配下に落ちました。

一方、同じ宗教でもキリスト教に対しては異なる対応を見せます。これはヨーロッパの先進文化への関心と、一向宗勢力と対抗させる狙いが背景にありました。安土城下にセミナリオ(神学校)を建てるなど、南蛮文化の導入を積極的に進め、異国の価値観を取り入れる柔軟性も持ち合わせていたのです。

室町幕府を滅亡させる

この頃、信長と将軍・足利義昭の関係は完全に破綻しており、天正元年(1573)には義昭を京都から追放。これにより、室町幕府は実質的に滅亡し、日本の歴史は大きな転換点を迎えます。

信長の軍はさらに勢いを増し、朝倉義景・浅井長政といった旧勢力を滅ぼし、天正3年(1575)には長篠(ながしの)の戦いで武田勝頼に勝利。鉄砲隊を効果的に運用する戦術で、信長の近代戦への対応力が際立ちました。

『長篠の戦い』古戦場。
復元された馬防柵。

翌年、信長は将来の飛躍に備えて、近江の安土城を築き始めます。七層造りの天守閣を持つ本格的な近世城郭であって、その豪華さは人々の眼を驚かせたといわれています。

その後、畿内では家臣であった松永久秀、荒木村重の反乱を鎮圧。側近の明智光秀が丹波(たんば)・丹後(たんご、兵庫県、京都府一帯)を平定し、柴田勝家が加賀を制し、羽柴秀吉は中国地方の毛利攻略を進めていきます。

そして天正10年(1582)、ついに宿敵・武田氏を滅ぼし、信長の「天下布武」はほぼ現実のものとなりつつありました。

しかし、信長の生涯は、この直後に突如として幕を閉じることになります……。

本能寺の変での死とその後

天正10年(1582)6月、中国征伐の指示を与えるために上洛し、京都の本能寺に宿泊していたところを、家臣・明智光秀が急襲。就寝していた信長は、鉄砲の音で光秀の襲撃を知り、自ら弓をとり、槍を持ち、防戦したといわれています。しかし、最終的には火中で自刃したそうです(本能寺の変)。

この突然の死により、信長の天下統一の夢は道半ばで終わることになりますが、その志は秀吉に引き継がれていくのです。

秀吉は「中国大返し」と呼ばれる驚異的な進軍で光秀を討ち、信長の仇を討ちました。ここから秀吉が一気に政権を握る流れが始まります。

まとめ

織田信長は、ただの戦国武将ではなく、時代そのものを変革しようとした「革命児」でした。その大胆な政策と行動力、そして人材を見抜く力が、豊臣秀吉と秀長という稀代の兄弟を世に送り出すきっかけとなりました。

『豊臣兄弟!』では、信長という存在が、秀吉と秀長の人生にどれほど大きな影響を与えたかが描かれます。戦の天才としてだけではなく、先導者としての信長の姿にも、ぜひ注目したいところです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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