小学校の頃、タイムカプセルを作った経験はあるでしょうか? 大切にしている品と一緒に、20年後の自分に宛てた手紙を卵型のケースに納めて地中に埋めるというもの。やがて、時代は流れタイムカプセルを埋めたこと、自分宛に手紙を書いこと、何を納めたのか? そのことさえも忘れてしまいます。
そんな頃になって、古い友人から「みんなでタイムカプセルを掘り起こすから参加して欲しい」とのメールが届くも、忙しさを理由に立ち会いませんでした。今では、その事をとても後悔しています。
後日、少年時代に書いた自分宛の手紙が手元に届き、複雑な思いで何度も読み返した記憶があります。今も、その手紙は大切に机の奥にしまっており、年に幾度かは読むようにしているのですが……。その時、50年以上前の希望に満ちていた少年から、「僕の夢はどうなったの?」と問い掛けられているような感じさえします。
できることなら、現在の気持ちのままタイムカプセルに閉じ込めた時代へ戻りたいなどと思ったりもいたします。さすれば、空想の中に現れる希望に満ちた少年への、後ろめたさを感じなくてすむかもしれません。
今回の「懐かしき風景」は、閉じ込められた時代の中に在るかのような温泉町の風景をご紹介いたします。
地元愛溢れる観光案内資料が、新鮮な驚きの出会いへと誘う
初めて訪れる土地であっても名の知れた観光地ですと、旅行番組などである程度の知識は持っているものです。訪問地によっては「あっ! ここ、テレビで見たことがある」といったふうに、どうかすると“答え合わせの旅”のようで、新鮮な刺激を受けることもなく、驚くような風景にも出会えなかったりするもの。
しかし、地名すら知らなかった町を訪れた時は、素直な驚きや新鮮な旅情感を味わえたりするので、憖(なまじ)中途半端な知識など持たない方が良いことを実感します。
ですから、時間に縛られない生活者になった今では、出来るだけ大雑把に“方面”とか“地方”だけを決め、時に風来坊の様な旅を楽しむことにしております。
そんな気儘な旅をサポートしてくれるのが、道の駅に置いてある地域の観光案内資料。いずれも郷土自慢、地元愛に溢れた資料ばかりで、いつも旅のサポートをしてもらいます。そんな資料を頼りに、町から町へ移動する旅で立ち寄ったのが、今回の島根県石見地方にある温泉津(ゆのつ)です。
愛車を日本海沿いに西へ西へと走らせながら立ち寄った道の駅。手に取った石見地方の見どころを紹介するパンフレットの中に、大正・昭和のノスタルジックな感じを漂わせる一枚の写真を見つけました。
「温泉津」と書いて「ゆのつ」と読む温泉地が在ることを知り訪ねてみることに。本音を申せば……、「温泉」の二文字に条件反射するが如く「温泉に入りたい!」と思った次第。道の駅を後に、案内標識が示す「温泉津」の文字を追って車を走らせました。
封印されたかのような時代を感じさせる風景、温泉津の歴史と向き合う
国道9号線から外れ、温泉津へと車をすすめると景色は一変します。
昔、銀山街道と呼ばれた狭い道の両側には古い商店や旅館、住宅が立ち並び、山陰地方の港町の風情を感じさせてくれます。そんな温泉津の佇まいは、何処か“タイムカプセルに閉じ込められた時代”の中に入り込んだかのように感じられました。
大きな時代のうねりの中で、日本各地の多くの古い町並みが消えていきました。
そうした時代変化にあって、なぜ温泉津は大正・昭和の風情を留めることができているのか? が不思議な感じさえしました。温泉津に関する歴史や郷土史などを紐解いてみると、色々と興味深いことが判明。ざっくりと要約しますと以下のようになります。解釈などに至らない処があればご勘弁いただきたい。
温泉津の起こりは7世紀ごろまで遡ります。傷ついた狸(たぬき)が温泉で傷を癒しているのを僧が見たことから、温泉が発見されたというユーモラスな伝説が残されています。
文献に“温泉(ゆの)”が登場するのは平安時代中期。『和名 類聚抄(わみょう るいじゅしょう)』邇摩郡(みまごおり)の項に「温泉」という郷名を確認できるそうです。この頃の温泉郷(ゆのごう)は、湯里(ゆさと)、西田(にした)、温泉津(ゆのつ)、小浜(こはま)で一郷を形成していたと見られています。
明確な「温泉津」という地名の起こりについては、石田春律(いしだしゅんりつ:江戸時代中期〜後期の農学者)によって編纂された地誌『石見八重葎(いわみやえむぐら)』に次のような記述が見られるとのこと。「温泉の郷と郷以所は温泉湧出る故を以て号く。後に郷を分ヶ船付を温泉津と号、家郷を湯里と号と也」。このことから、古くより温泉郷(ゆのごう)と呼ばれた地域を二つに分割して、海辺の集落を温泉津とし、農村部を湯里と呼ぶようになったことがわかります。
温泉津が最も注目され発展するのは、戦国時代から江戸期のこと。大内氏、毛利氏、尼子氏ら戦国大名によって激しい争奪戦が繰り広げられた後、永禄5年(1562)、毛利氏が石見国を平定。石見銀山と温泉津は直轄地となり、それを期に温泉津に奉行が配置されます。元亀2年(1571)、毛利元就は温泉津湾の入り組んだ構造に着目して、毛利水軍の基地とするため鵜丸城(うのまるじょう)を築城。
江戸時代に入りますと、銀の産出量は飛躍的に伸び、銀の積み出し港としての役割を担っていた温泉津は一層発展します。しかし、時代が近世から近代へ移るにつれ状況は大きく変化しはじめます。
やがて、石見銀山街道の整備も進み陸運が発達してくると、銀の輸送は天候に左右される海路を避け陸路へ。温泉津の斜陽に一層の拍車をかけるのが、大正7年(1918)山陰鉄道浜田線の敷設。温泉津駅も開業し、大正10年(1921)には全線が開通。更に追い討ちを掛けるように、石見銀山の埋蔵量にも翳りが見えはじめ、やがて時代の表舞台から遠のいてゆきました。
時代のうねりから取り残された町が、そのまま残る世界文化遺産登録の町並み
かつて大量の銀が積み出されていたであろう温泉津港から、今は狭い一本道が山間部へと伸びる。その狭い道路の両側に、明治、大正から昭和初期に建てられたと思しき日本旅館や家屋が軒を連ね、鄙びた温泉地の雰囲気を醸し出しています。温泉街にありがちな派手な色彩のネオンや遊戯施設が全く見られないことにも心惹かれました。
無雑作な観光開発から逃れられたことで、希少とも言える風景がタイムカプセルに閉じ込められたかのように残り得たのだと思います。温泉街には、二つの湯元「元湯泉薬湯」と「薬師湯」という共同浴場があり、温泉津を代表する観光スポットとなっています。
その薬効豊かな湯質は有名で、全国から湯治に訪れるそうです。今や温泉津を訪れる観光客の多くは、この共同浴場がお目当てと言っても過言ではないでしょう。
ちなみに、この温泉街は平成16年(2004)7月に、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。その後、平成19年(2007)7月には「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部として世界文化遺産にも登録されました。後になって知ったことですが、昭和49年(1974)公開の映画『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』の撮影地にもなったそうです。
それ相応の年齢に達しますと、物事を知らないということは、誠に恥ずかしい思いをすることがあります。しかしながら、己の無知を認め悟ることで、謙虚な心を持ち続けることに繋がるのも事実です。そうした意味において、見知らぬ土地を訪れ、その土地の歴史や気候風土に触れ、生活者と接することは、未知との出会いであり己の無知を悟る機会にもなります。これ即ち、脳を刺激し若さを保つ効果的方法の一つであるようにも感じております。
時には、細かな計画を立てずに、風まかせ、気の向くままの旅を楽しんでみるのも良いのではないでしょうか?
アクセス情報
所在地:〒699-2501 大田市温泉津町温泉津
鉄 道:山陰本線温泉津駅からバス約5分、温泉前下車
自動車:浜田道大朝ICより車で約60分
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook