昭和3年(1928)に出会い、互いに意気投合。翌年に結婚したふたり。写真は婚約当時のもので、大磯で撮影されたものという。

【特別寄稿|青柳恵介(古美術評論家)】白洲次郎のいた風景|随筆家・白洲正子との夫婦の肖像

次郎さんが正子さんのことを何と呼んでいたか私は知らないが、正子さんは次郎さんのことを「次郎さん」と呼んでいた。「ジローさん」というより「ジロさん」というように聞こえた。本人に対しても、第三者に対しても、次郎さんは「ジロさん」であった。たとえば、私の二人の祖母が夫のことを名前で呼ぶ習慣はなかった。一般に、明治生まれの夫婦が歳をとってからも互いを名前で呼びあうというようなことは、稀なことではなかったか。

初めて私が正子さんから次郎さんに紹介されたとき、次郎さんはいきなり「君は僕のことをさぞかし我慢強い男だと思っていたでしょ?」と言われ、私はその意味が分からないで、きょとんとしていると、やや強い口調で「今までこの婆さんと僕はずっと付き合ってきたんだよ」と付け加えられ、私はようやくその冗談が理解できた。私は笑ったが、その冗談は正子さんの口から発せられても通じるものだと思ったのだった。そして、さて本当に我慢強いのはどちらなのだろうか、と真面目に考えたのだった。夫婦の「付き合い」という問題についても。

結論的に言うと、私は次郎さんも正子さんも決して我慢強くないと思う。むしろ、二人とも我慢しない人であった。そして、どちらかが己を殺すことにおいて対等な関係を作るのではなく、どちらも最大限に己を主張することにおいて対等であってしまった夫婦と言ってよいのではなかろうか。その辺が格好良い。「夫婦円満の秘訣は、一緒にいないこと」という次郎さんの有名な名言は、「対等であってしまった夫婦」の智恵である。

次郎が先か、正子が先か

話はさかのぼるが、昔の雑誌を見ると、戦後に白洲正子が文章を寄稿する際の筆者紹介は「随筆家・白洲次郎氏夫人」というのが多い。また、それが長かった。五十歳のころから「白洲次郎氏夫人」が取れた。正子さんの
文筆の仕事が世に知られ、七十を過ぎるとさらに読者層は広がり、古希を迎えるころには白洲正子の文章は世間で流行した。本屋では正子さんの本が平積みになった。そのころ地方のお菓子屋で正子さんが発送を頼むためにみずからを名乗ると、お菓子屋が「本物の白洲正子かね?」と言ったと、正子さんがおかしそうに笑ったのを思い出す。亡くなってさらにブームと呼んでよいような、流行を見ている。「生きているうちに印税が欲しかったね」という正子さんの声が聞こえるような気がする。

白洲次郎が「白洲正子氏の夫」と認識され、世間では「白洲正子の御主人ってどんなかた?」と囁かれるようになった。白洲正子の仕事が世の中で高く評価されることを最も喜んでいるのは、冥界の次郎さんだろうと私は思っていたが、今度は「白洲次郎ブーム」である。日本人が意気地を失い、意気消沈しているさなか、文字通り孤軍奮闘した白洲次郎という存在を発見することにおいて明日への活力を見出したい、正義感を持つことの格好良さを見習いたい、という気持ちがブームを支えているのだと思うが、一方では「いい加減にしろ!」という次郎さんの声が聞こえるような気もする。

白洲次郎は自分の頭で考え、自分の信念に基づいて行動する。それが自分勝手とか独りよがりに陥らないのは、実は己を律することの強さによる。正義は人の見ていないところでこそ発揮されなければならない。夫婦は「人の見ていないところ」が互いに見えてしまう関係にある。正子は「ジロさんは正直者だ」と評した。次郎が敗戦の混乱に飛び込んで、家に帰る暇もなく闘う後ろ姿は、文筆の世界で苦闘する正子の何よりの励みになったに違いない。

文芸の世界に中年を過ぎて飛び込む正子に、次郎が危うさを感じなかったはずはあるまい。時には、次郎の嫌悪するような無頼の徒とも付き合う。しかし、どんなに強く手を引いても意に反して帰ってくる正子ではないことも知っていただろう。加えて、正子は人には決して漏らさないけれども、一つの命題を自分に課すと、毎日それを実践する意志を持っていることも知っていた。夫婦は人に漏らさぬことが、おのずから漏れてくる関係にある。
意見の相違などは、あって当然である。己あっての夫婦である。互いの間に生まれた信頼関係は、むしろ自分の道を黙々と歩むことによって強まる。そういう関係があった上で「夫婦円満の秘訣は、一緒にいないこと」という逆説は成立するのだろう。

己を律することにおいて対等だった

白洲正子のレトリックは、張りぼてではない。ぎっしり中身が詰まっている。日々の精進を飛び越えたレトリックは「弱い」と言って、正子は認めなかった。

白洲次郎のダンディズムは、みずからを律する内面が外に溢れた格好良さであって、容易に人は真似の出来ない性質のダンディズムである。

次郎のダンディズムが先か、正子のレトリックが先かと問われたら、それは次郎のダンディズムのほうが先だと答えるのが正しいと思う。しかし、己を律することの力はどちらが先かと問われたら、それは愚問だと言うしかない。

正子さんが欲しいというので、これはどうかと骨董屋さんが、李朝の箪笥を白洲家に持ち込み、たまたま私もそこにいたことがあった。正子さんは、一瞥してその箪笥を気に入った様子であったが「家具を買うときは、ジロさんに相談するのよ」と言って次郎さんを呼びに行き、やがて次郎さんがお出ましになり、その箪笥を眺めた。二人は急に英語で喋り始めた。私達にはその会話の内容がまるでわからない英語であった。互いの意見交換が終わると、正子さんは骨董屋さんに「悪いけれど、ジロさんがどうしても気に入らないのよ、これは諦めてほかのものを探すわ」と告げた。次郎さんは英語だけ喋るとさっさと部屋から出て行った。その際の二人の様子には、まるでこだわりがなかった。家具を選ぶときは二人で決める。どちらか一人でも気に入らない場合は、その家具は家に置かない。そのプリンシプルに沿って結論が出た、という感じであった。しかしそれはあくまで内輪の相談で、ここが気に入らないとか、あそこが嫌いだとか、わざわざ大きなものを苦労して運んでくれた骨董屋さんの前で云々することは失礼だ。そこで自然に英語が出たということだろう。

次郎さんが部屋から出て行きしなに、正子さんは次郎さんの襟首に垂れた頭髪を指で軽く触れた。相談に乗ってくれてありがとうというサインと思われた。が、次郎さんは「分かってますよ、明日床屋に行きますよ」と、髪が伸びたことを正子さんに指摘されたように受け取った答えを返した。おそらく照れ隠しであったろう。何気ない日常の一齣(ひとこま)であるが、私には羨ましい光景であったので今でも忘れずに覚えている。

昭和60年(1985)11月、次郎は正子と連れ立って軽井沢へ向かい、その後に京都を旅した。帰京後、11月28日逝去。享年83。

青柳恵介(あおやぎ・けいすけ)1950年、東京生まれ。成城大学大学院博士課程(国文学)満期退学、元成城学園教育研究所勤務。祖父の影響を受け、幼少期より骨董に親しむ。その縁もあって骨董の目利きとして知られた随筆家・白洲正子と親交を深めるようになり、最晩年の白洲次郎にも出会う。著書に『風の男 白洲次郎』『柳孝 骨董一代』(ともに新潮社)、『骨董屋という仕事』(平凡社)などがある。

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※この記事は『サライ』本誌2022年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。

 

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