はじめに-文覚とはどんな人物だったのか
文覚(もんがく)は平安末期・鎌倉初期の真言宗の僧です。もとは武士で、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていました。出家後に伊豆に配流され、そこで出会った源頼朝に挙兵を促した人物ともされています。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝にあやしく迫る謎の僧(演:市川猿之助)として描かれます。
目次
はじめに-文覚とはどんな人物だったのか
文覚が生きた時代
文覚の足跡と主な出来事
まとめ
文覚が生きた時代
文覚が生きた平安後期から鎌倉時代は、源平合戦が繰り広げられ、武士・貴族・天皇の勢力が複雑に入り乱れた、激動の時代でした。その中で、源頼朝に平氏討伐の挙兵を促し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献したとされる僧侶が文覚でした。
文覚の足跡と主な出来事
文覚は、保延5年(1139)に生まれ、建仁3年(1203)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
武士の子として生まれるが、出家する
文覚の生年は、神護寺蔵伝の画像を手がかりにすれば、保延5年(1139)となります。俗名を遠藤盛遠(もりとお)といい、鳥羽天皇の皇女・上西門院(じょうさいもんいん)に仕えた摂津の武士・遠藤茂遠(もちとお)の子だと考えられています。
盛遠が出家して「文覚」を名乗った確かな経緯は明らかにされていませんが、『平家物語』には、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻・袈裟(けさ)に横恋慕し、誤って彼女を殺害したために出家した話が詳述されています。何らかの恋愛事件が動機となり18歳で出家した文覚は、諸国の霊場を遍歴、修行しました。
伊豆に配流され、頼朝と出会う
文覚は真言宗の開祖・空海を崇敬し、仁安3年(1168)に京都に帰ると、空海の旧跡である神護寺(じんごじ)に住み、修復に努めました。承安3年(1173)には、後白河院の御所を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進、寄付を強要します。そこで法王の逆鱗に触れた文覚は伊豆に流されたのでした。
しかし、同じく配流中であった源頼朝と出会い、たちまち親交を結びます。治承2年(1178)に許されて帰京した文覚でしたが、流されてのちも信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧めたとされています。
その後は平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促したと考えられています。これらが記された『平家物語』には細部に虚構が見られるものの、この時期に文覚が頼朝の覇業に貢献したことは確かです。
鎌倉幕府成立後も頼朝の信任を厚くし、京都と鎌倉を往復して京都や諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をします。一方、頼朝からは諸大寺の復興の協力を得たのでした。
空海ゆかりの諸大寺を次々と復興する
平家が壇ノ浦に滅亡する寿永2年(1183)頃になると、頼朝と並んで後白河院も文覚の外護者に転じ、彼がかねてより企てていた、空海ゆかりの諸大寺復興の大事業を強力に支援しました。紀伊国桛田荘(かせだのしょう)をはじめ、摂津・若狭・丹波・播磨・備中の各地にある荘園が、法皇や頼朝から寄進されたのです。
荘園からあがる厖大な資金を投入して、建久元年(1190)には神護寺の堂宇がほぼ完成し、法皇の御幸を仰ぎました。さらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、文覚は復興事業を主催、建久8年(1197)には諸堂の修造を終えました。その他にも西寺・高野大塔・四天王寺など、空海に関係する諸大寺を次々と修繕していったのは、文覚の熱烈な大師信仰に基づく純粋な宗教運動とみなされています。
後ろ盾を失い、流罪となる
しかし、建久3年(1192)に後白河院が崩御し、正治元年(1199)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失います。すると、討幕政策を進める後鳥羽院勢力の忌むところとなり、内大臣・源通親(みちちか)の策謀で、親頼朝派の公家・九条兼実(かねざね)らとともに謀議を計ったとして捕らえられます。そこで、文覚は佐渡に流罪となったのでした。
その後、建仁2年(1202)に許されて帰京しましたが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌年、さらに対馬に流されてしまいます。その配地に赴く途中、鎮西で客死したとされています。彼の遺骨は遺弟・上覚(じょうかく)らによって、神護寺背後の山頂に埋葬されました。
伝承の中の文覚
文覚についての伝承は、『平家物語』を中心に展開されています。神護寺復興のために後白河法皇を尋ねた際には、開かれていた遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ、投獄されてもなお放言悪口を止めなかったとされています。また、配流の途中に、護送の役人をだまして笑い者にし、船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが書かれています。
『源平盛衰記』には、頼朝に対面し、彼が天下の大将軍となる相を見ると、父・義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという記述があります。
このように物語のなかで、文覚は「物狂な人」とされ、勧進聖としての姿を強調することに重なります。また、頼朝に仕える護持僧(ごじそう)として、予言者であり、さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示しています。『愚管抄』には彼のことを「天狗マツル人」という評判があったといい、『吾妻鏡』は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど、物語の記述においては、文覚が“王を背後から支える宗教者”として造形されているのが見て取れます。
まとめ
僧でありながら、時代のトップに立つ頼朝や後白河法皇と接触し、後ろ盾を得るほどの存在となった文覚。その謎多き生涯は、我々の興味をかき立てるような数々の逸話で彩られています。逸話の中に見て取れるその破天荒な性格からみても、鎌倉の歴史の中でも一際異彩を放つ人物だといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)