どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。数多ある軍略の中から、外交・情報戦について解説。

局地戦で勝った家康だが、最終的には和睦を余儀なくされる

長久手合戦図
江戸時代中〜後期。中央上部に徳川家康の葵紋と金扇の馬印が見られる。左側には秀吉方の森長可や池田恒興らが戦死する場面が描かれている。犬山城白帝文庫蔵 写真/犬山城白帝文庫

小牧・長久手の戦い(1584年)

敵将:徳川家康(1542〜1616)

三河国の武将の子として誕生。織田信長と同盟し、大名として成長。小牧・長久手の戦い後に秀吉に臣従し、豊臣政権の五大老に。秀吉死後に政権を掌握、江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたのち病死。東京大学史料編纂所蔵・模本
写真/東京大学史料編纂所

織田信長の次男・信雄(のぶかつ)は、秀吉の織田家乗っ取りを危惧し、信長の同盟者であった徳川家康と組んで秀吉と対抗。天正12年(1584)両軍は尾張の小牧で対峙した。このとき家康の重臣・榊原康政は秀吉を誹謗する檄文を諸将に送り、秀吉は激怒。秀吉も対抗して榊原康政の首に10万石を懸けたという。

「この逸話の信憑性は低いですが、睨み合いが続くなか、両陣営間で水面下の情報戦が繰り広げられたことでしょう」(小和田さん)

家康の本陣は小牧山城

織田信長の居城があった独立丘陵。濃尾平野が戦場となる可能性が高まると、家康はいち早くここに目をつけ、大改修を施して本陣を置いた。写真/アフロ

実を取る秀吉の戦略

膠着状態が続くなか、局面を打開すべく、秀吉の甥の秀次は家康の本拠の三河を急襲しようと奇襲隊を動かした。しかし家康軍の諜報網に引っ掛かり、秀次隊は長久手で背後から家康軍に襲われ、池田恒興や森長可(もりながよし)といった名だたる武将が討ち死にしてしまった。

この事態を受け、秀吉は、得意の調略を用いた。この戦いのそもそもの張本人である織田信雄と講和してしまったのである。信雄を助けて秀吉と戦っていた家康は大義名分を失い、次男の秀康を秀吉の養子にするという形で講和が成った。小和田さんは小牧・長久手の戦いをこう分析する。

「秀吉と家康の戦いは、戦闘で家康が勝ち、戦争で秀吉が勝ったという形です。この頃の力関係を考えると、秀吉軍が10万を超す大軍を動員できるのに対して、家康と信雄の軍勢は合わせても1万6000〜7000にしかならず、圧倒的に秀吉側が有利なのです。秀吉は局地戦の負けなど気にせず、最終的に相手を屈服させれば勝ちだと思っていたでしょう」

秀吉は大坂から犬山城に入り、楽田城に前線基地を置いた。徳川家康は伊勢の長島城を本拠としていた織田信雄と清須城で合流。小牧山城に陣を布き、秀吉と対峙した。
秀吉方の有力武将・池田恒興は長久手で家康方に急襲され戦死。(上イラスト)

小牧・長久手の戦いから2年後、秀吉は妹の朝日姫を強引に離縁させて家康に嫁がせるなど、外交戦略を繰り返し、ついに家康を臣従させることに成功した。

解説 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)

昭和19年、静岡県生まれ。専門は日本中世史。日本城郭協会理事長。NHK大河ドラマ『秀吉』『軍師官兵衛』『どうする家康』などの時代考証を担当。著書に『豊臣秀長』『戦国武将の叡智』など多数。撮影/今井一詞

取材・文/上川畑 博 イラスト/さとうただし 地図/モリソン

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