薩摩藩士として幕末の動乱期をくぐり抜け、維新後は破綻しかけた大坂の経済復興に力を注いだ五代友厚(演・ディーン・フジオカ)。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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外国かぶれの紳士?
五代友厚といえば、2015年のNHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)『あさが来た』で一躍有名になった元薩摩藩士だ。洋行帰りだからか、何かというと英語を駆使する英国紳士風の洗練された人物で、主人公「あさ」のビジネスの師匠となり、たちまち人気に火がついた。実在の五代がそうであるように、ディーン・フジオカが演じたドラマの中の五代も若くして亡くなってしまうのだが、熱心なファンの間では「五代ロス」と呼ばれる現象が起きたことも記憶に新しい。
朝ドラの『あさが来た』に引き続き、大河の『青天を衝け』でもディーン・フジオカが五代を演じるため、「五代ロス」の方々も快哉を叫んでいることだろう。
この五代友厚、ディーン・フジオカほどイイ男であったかどうかはともかく、ただの外国かぶれの商売人ではなかった。幕末には薩摩出身の志士として世界を股にかける活躍をし、薩摩藩を代表する人物のひとりとして行動したことは、意外に知られていない。
五代が鹿児島城下に生まれたのは、天保6年(1835)。渋沢栄一より5歳上だ。早くから開明的な藩主島津斉彬に認められ、20歳のときに長崎海軍伝習所へ遊学した。ここで幕臣の勝海舟や榎本武揚とともに航海・砲術・化学・数学など、最先端の西洋文明を学んだ。
文久2年(1862)には藩の命令で上海に渡航。汽船や武器の購入に努めたが、薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発したため、急遽帰国して戦いに参加。同僚の寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となってしまった。
近代国家のグランドデザインを描く
このとき、五代らは薩摩藩を「攘夷」から「開国」に転換させるために、あえて捕虜になったとも言われていた。これは、薩英戦争の発端となったのが、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」という攘夷行動だったことからきた誤解で、薩摩藩自体は島津斉彬とその遺志を継いだ国父久光によって、とっくの昔に単純な攘夷からは脱却していた。
そして、捕虜となった五代は、イギリス海軍のクーパー提督に「10万の薩摩藩士は死を恐れぬ闘士である」と告げた。もしイギリス兵が薩摩に上陸すれば、すべての薩摩藩士がイギリス兵を道連れに死を選ぶだろうと脅したわけだ。
恐怖を感じたクーパーは、鹿児島への上陸を断念して講和を結んだ――と、五代の伝記では語られてきた。伝記作者は、「薩摩を救ったのは五代の弁舌であった」とまで称賛しているが、これは贔屓の引き倒しだろう。
実はイギリス海軍は、艦長と副官を含む13人が亡くなるなど、予想外の被害を出していた。クーパーやその上官であるイギリス公使代理のジョン・ニールは、本国の議会で「無謀な戦闘を仕掛けた挙句、自国民を死なせた」と追求されるのを恐れ、さっさと戦争を終結したかったのだ。
五代らは間もなく釈放されたが、日本の国内事情をリークしたので助命されたという悪い評判が立ち、幕府からも薩摩藩からも厳しい批判にさらされた。そのため、五代らは薩摩に帰国することができず、しばらく武蔵国の熊谷で潜伏生活を送ることになる。
『青天を衝け』では、熊谷のすぐ西に位置する深谷に住む渋沢栄一(演・吉沢亮)と、潜伏中の五代がすれ違うという秀逸な演出が見られた。もちろん、このときふたりが顔を合わせたという事実は確認できない。しかし、同じ時期に隣町にいたのは事実だから、すれ違っていたとしてもおかしくはない。
のちに、「東の渋沢、西の五代」と、東西を代表する経済人として並び称されるふたりだが、もちろんこのときは、そんな未来を知る由もない。
この潜伏生活を送っているとき、五代は長年温めていた日本の近代化策を練り上げた。その要点は、海外貿易を振興し、同時に海外に留学生を派遣して、進んだ西欧文明を取り入れることだった。彼は極めて具体的で現実的なプランを藩に提出し、採用された。
慶応元年(1865)、のちに「薩摩スチューデント」と呼ばれる留学生19人がイギリスに渡り、五代は留学生を束ねる使節団4人のひとりとして参加した。五代は旅先から日本に送った手紙のなかで、近代国家の根幹は「industry(産業・工業)」と「commerce(貿易)」であると語っている。五代は新たな国家の進むべき道を、「工業立国」と位置付けていたのだ。
慶応2年に帰国した五代は、薩摩藩の近代化や軍事力の整備、長州との連携などの仕事に駆けずり回り、渋沢も参加したパリ万博に、薩摩代表を送り込むための準備などにも携わった。
慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争には、直接はかかわらなかったようだが、発足間もない明治政府の外交担当として、主に大阪を中心に活躍をした。
当時、幕末の動乱の余波もあり、大阪経済は疲弊していた。五代は次第に、衰退していた大阪経済を立て直すことを志すようになり、実業界に転じた。五代は大阪の地で造幣局や大阪商工会議所、商船三井、大阪市立大学の元となる事業を展開した。
五代と渋沢、財界人としての交流
ちなみに、記録で見る限り、渋沢と五代の交流が確認できるのは、ともに財界人として重きをなすようになった明治11年以降のことだ。
明治11年、大阪第三十二国立銀行が創立した際、渋沢と五代が同行の経営者として、のちに阪神電鉄の初代社長となる外山脩造をスカウトした話が伝わっている。さらに、のちに財閥となる住友のトップ、広瀬宰平と五代らが大阪株式取引所(現大阪取引所)を設立したときには、そのわずか1か月前に東京株式取引所(現東京証券取引所)を開業に漕ぎつけていた渋沢が、「指導」に当たったとされている。
五代は、渋沢と同じく、産業の育成と近代化が日本の将来を作るのに不可欠であることを理解していた。先にふれたように、「industry(産業・工業)」と「commerce(貿易)」による「工業立国」が、目指すべき近代日本であると見通していたのだ。
五代友厚はただの西洋かぶれの紳士ではなく、実は渋沢と同様、明治国家のグランドデザインを描いた人物だったのだ。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。