写真・文/藪内成基
戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。
今回は、対立する豊臣家と徳川家の仲介役を果たしたとされる「中老」の一人。ただ交渉が得意なだけではなく、戦場で功績を残し、国宝・松江城をはじめとする名城を築いた堀尾吉晴(ほりおよしはる)を取り上げます。
備中高松城の戦いで「検死役」を任される
天文12年(1543)、尾張国御供所村(愛知県大口町)に堀尾吉晴は誕生。父・堀尾泰晴は、岩倉城(愛知県岩倉市)主の岩倉織田氏に仕える有力土豪でした。堀尾吉晴も岩倉織田氏に仕え、織田家間の争いのため織田信長と戦ったのが初陣でした。しかし、岩倉織田氏が敗北したため浪人。その後、織田信長に召し抱えられた後、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えます。
水攻めで知られる天正10年(1582)の「備中高松城の戦い」では、羽柴秀長や黒田孝高(官兵衛)らとともに備中高松城(岡山県岡山市)を包囲。さらに、城主・清水宗治の切腹を見届ける「検死役」を任されました。本能寺の変後の山崎の戦いでは鉄砲隊を率いて活躍。その後も、小牧・長久手の戦いや小田原攻めなどで功績を残します。
堀尾吉晴の通称は「茂助」。容貌は端正、性格は温厚であることから「仏の茂助」と呼ばれていました。一方で、戦場での勇猛ぶりから「鬼の茂助」とも呼ばれました。
そうそうたる顔ぶれの佐和山城主に名を連ねる
四国平定が行われた天正13年(1585)、功績によって佐和山城(滋賀県彦根市)4万石が堀尾吉晴に与えられます。佐和山城は、近江の要衝を守る城として織田信長にも豊臣秀吉にも重視されました。
織田信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。また、豊臣秀吉の元では石田三成が入城。城主の顔ぶれから、佐和山城の重要性が分かります。その顔ぶれの中に、堀尾吉晴も含まれるのです。関ヶ原の戦い後には、徳川四天王の井伊直政が入城。その後、井伊家は彦根城(滋賀県彦根市)に移ることになり、佐和山城は壊されてしまいます。
浜松城を改修し豊臣政権の威光を示す
天正18年(1590)、小田原攻めの後に堀尾吉晴は浜松城主12万石に出世しました。浜松城主を約10年間務め、浜松城の石垣を築き、天守台の上に天守を建てました。さらに領内の二俣城・鳥羽山城(ともに静岡県浜松市)も石垣造りへと改修。もともと、徳川家康が築いた、浜松城や二俣城を近世城郭へ大きく変貌させ、豊臣政権の天下を世に知らしめました。
浜松城は徳川家康の「出世の城」として名を知られていますが、実は堀尾吉晴が築城に大きな役割を果たし、吉晴の出世の足掛かりにもなったのでした。
【隠居地の越前府中へ向かう道中で負傷。次ページに続きます】