隠居地の越前府中へ向かう道中で負傷
豊臣秀吉の死後は、激しく対立する徳川家康と石田三成の間に立って仲介に尽力します。功績が認められ、徳川家康から越前府中城 (福井県越前市) の留守居役として 5万石の領地を与えられました。家督を息子の堀尾忠氏に譲り、越前府中城で隠居しようとした道中に、三河国池鯉鮒 (愛知県知立市) で発生した水野忠重殺害事件に巻き込まれ負傷してしまいます。
この傷が影響して、慶長 5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康に味方するものの参戦は叶わず。子の堀尾忠氏が参陣し、戦場での活躍が認められ、関ヶ原の戦い後には24万石に加増。出雲・隠岐国(現在の島根県)の国持大名へ大出世しました。
早世した息子・堀尾忠氏に代わり松江城の築城に尽力
堀尾吉晴・忠氏親子は、戦国時代に尼子氏や毛利氏が拠点にした、月山富田城(島根県安来市)に入城。堀尾忠氏は、新たな領国支配の中心としての新城の築城を計画するものの、計画段階で亡くなってしまいます。堀尾忠氏がまだ28歳と若かったこともあり、堀尾吉晴が後見として藩政を執り行うことになりました。
松江の将来性に着目して城地を移し、慶長12年(1607)から松江城の築城と城下町松江の建設を開始し、妻とともに事業の実現に尽力します。堀尾吉晴が築いた松江城天守は、板張りのいたるところに石落としや狭間が設けられた多聞櫓で囲まれています。さらに、石垣や土塀に屈曲が多用され、極めて実践的な構造です。「築城の名手」としての集大成とも呼べる名城を残しました。
松江城天守の完成を見届け、慶長16年(1611) 6 月に堀尾吉晴は亡くなります。享年69歳。孫の堀尾忠晴は、父や祖父の遺志を継いで藩政を行いましたが、寛永10年(1633)に嗣子なく死去。家名存続の運動も幕閣に対して行われましたが、残念ながら堀尾家の家名は断絶してしまいます。
三英傑の元で出世を重ねた堀尾吉晴。人柄の良さと戦場での勇猛さが現在にも伝わり、名城・松江城を残しました。一方で、負傷により関ヶ原の戦いに参戦できず、息子・堀尾忠氏は早世し、松江城完成の年に自身が亡くなるなど、予期せぬ出来事にも遭遇してきました。ここぞという時の運が悪いのか、逆境に強いのか。堀尾吉晴はどのように受け止めていたのでしょうか。
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。