文/砂原浩太朗(歴史・時代小説家)
小和田哲男さん(静岡大学名誉教授・77歳)
古戦場をたずねるときは、あらかじめその地方の自治体史などで合戦の経緯を読み込んでから行きます。予備知識なしで足を運んでも、「ああ、すごい山だね」「きれいだね」で終わってしまいますからね(笑)。あとは、対陣図があれば、コピーして持参する。現場に身を置くと、「定説ではこう言われているけど、もしかしたら違うんじゃないか」と気づくこともあります。
歴史を意識しつつ山を歩くなら、注目すべきは“峠”です。いま自動車が走っているような幅の広い道路はたいてい近代に整備されたもので、むかしは峠越えが一般的でした。軍勢もそこを通って移動したわけです。賤ヶ岳の周辺でいうと、柴田勝政(勝家の養子)が布陣した“飯浦の切通し”などが重要でしょうね。
賤ヶ岳には10回ほど行っています。山頂からは余呉湖や琵琶湖が一望でき、まさに絶景です。まわりの山も奥の方まで見渡せますから、どこへ誰が布陣していたかなど、書物で得た知識と実際の風景があざやかに重なってきます。いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」がほぼみな20代なのも、現地へ行けば腑に落ちますよ。この斜面を駆けあがって戦うんだから、40代50代にはとても無理だなと(笑)。やはり自分の目で見ることは、なによりも大事です。
この戦いで秀吉の勝利を決定づけたのは、柴田方に属していた前田利家が撤退したこと。合戦たけなわのタイミングで、突然戦場から兵を退き、これで柴田軍は総崩れとなります。もちろん、秀吉は事前に利家へ内応を呼びかけていたでしょう。内通や裏切りは戦の常套手段ですし、秀吉はそうした手法に長けていましたから。
歴史に「もし」はいえませんが、前田勢の退却がなければ、賤ヶ岳の戦いはどっちが勝ったか分かりません。兵数からいえば羽柴方5万に柴田方は2万というところで羽柴有利に見えますが、山岳戦というのは、どう転ぶかしれない可能性を秘めているのです。山の地形をうまく使った方が勝利する。秀吉はそれも分かっていたのでしょう、軍勢の数に甘えることなく、地勢を熟知し、柴田方の来襲にそなえて怠りなく土塁なども築いていました。
賤ヶ岳の勝利を見ると、「山を制する者は戦国を制す」と感じますね。(談)
参考文献/『地図で読み解く 戦国合戦の真実』(小和田哲男監修 竹内正浩著)
聞き手/砂原浩太朗さん(歴史・時代小説家・51歳)
※この記事は『サライ』本誌2021年6月号より転載しました。(取材・文/砂原浩太朗 構成/角山祥道 撮影/小林禎弘)