NHK大河ドラマ『麒麟がくる』第38話で、明智光秀は織田信長から丹波平定を命じられました。しかしその後も、光秀は、大阪本願寺との戦い、信貴山城の戦い…とさまざまな戦いに参加し、八面六臂の活躍を見せています。ドラマの中ではどこまで描かれるかわかりませんが、今回は、明智光秀最大の功績とも言われる、丹波平定の足跡を辿ってみたいと思います。
丹波は、地元の国衆が支配する日本でも最難関と言われる攻めにくい地域で、当初から丹波平定は困難が予想されていました。その予想は現実のものとなり、5年に及ぶ長期戦の後、光秀が丹波を平定した際には、「日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と信長は賞賛しています。
丹波平定戦の中でも、特に光秀が鉄壁の防御に苦戦した丹波の山城の2つ、黒井城跡と八上城跡を動画でレポートをいたします。可能な限り、現地の臨場感をお伝えしますので、お楽しみください。
■丹波の赤鬼が治める、戦国屈指の山城・黒井城
1575年、信長から丹波攻略の命を受けて、光秀がおそらく一番手を焼いたのは、黒井城攻めだったのではないでしょうか。黒井城は、丹波三大山城(八上城、八木城、黒井城)の一つに数えられており、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正の居城です。
黒井城は、現在の丹波市のほぼ中央に位置し、標高365mの猪ノ口山の山頂を平たく削った場所に建てられていました。1576年、光秀は黒井城を攻めますが、八上城主の波多野秀治の裏切りに遭い、大敗。光秀は、「山崎の戦い」の他はすべての戦で勝利を収めているので、そんな光秀を追い詰めたことからも、黒井城の防御力の高さが窺い知れます。
そんな黒井城跡は現在、動画でもレポートしていますが、トレッキングコースとして楽しむことができます。登頂まではおよそ40分ほどと骨が折れますが、山頂では360度丹波市一円を望める絶景パノラマが待っていますよ。
また、山頂の城址は整備され、本丸、二の丸、三の丸や帯状曲輪、石垣跡も見ることができます。この石垣は、黒井城落城後に城主となった光秀の家臣・斎藤利三や秀吉配下の堀尾吉晴らが築いたと考えられているようです。
黒井城を踏破すれば、要塞のような作りになっている山の全容や、非常に堅牢な防御を誇る山城であったことが実感できるでしょう。
コロナ禍が落ち着いた暁には、比較的ゆるやかなコースと急坂なコースに分かれておりますので、ご自身の体力に合わせて挑戦してみてはいかがでしょうか。
■難攻不落の大規模な山城・八上城
光秀の丹波攻略において、黒井城とともに手を焼いたのが、八上城。光秀は何度となく攻めましたが、堅い防御力に阻まれました。八上城は、先述したように黒井城攻略中に光秀を裏切った、波多野秀治が城主です。
八上城は、篠山盆地の中央南部にそびえる標高460mの高城山に本城が築かれていました。周囲に支援する武将たちがいた上に、自然の地形をうまく取り入れた軍略的な山城は敵軍を寄せ付けなかったと言われています。城塞化された八上城は、難攻不落。光秀は兵糧攻めをして、八上城を落城させました。
八上城のあった高城山は、美しい山容から「丹波富士」と呼ばれています。動画では、春日神社の登山口からおよそ45分の登山道を登っています。
城主の屋敷跡や光秀の居館跡である主膳屋敷跡、本丸跡、石垣の跡がみられます。
迎え撃つ城主・波多野秀治は光秀の軍勢をどのように見ていたのだろうか、そして討ち果たした光秀はどのような思いで、山頂からの風景を見たのでしょうか。戦国武将の気持ちを考えながら、頂上に立つと感慨も一入かもしれません。
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光秀は、1575年に信長に丹波平定を命じられてから、1579年に丹波を平定し、1580年丹波一国を領国として与えられました。領地では善政を敷いたとされ、京都府の亀岡市や福知山市など今も光秀を慕う地域は多いです。
実際に光秀が統治した地域を訪れてみると、それまで統治していた赤井直正や波多野秀治よりも色濃く光秀の足跡が残っていることが見て取れます。このことからも、明智光秀という武将が、いかに民を大切にし、地域の繁栄に尽くしたかがうかがえますね。
■アクセス情報
「黒井城跡」
住所:兵庫県丹波市春日町黒井
JR福知山線「黒井」下車、徒歩約20分(登山口まで)
「八上城跡」
住所:兵庫県丹波篠山市八上上字高城山
JR福知山線「篠山口」下車、バスで約40分(登山口まで)
取材・文/末原美裕(京都メディアライン)
撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
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