収穫期を迎えると島はみかんによって黄金色に染まる
収穫期を迎えると大崎下島はみかんによって黄金色に染まる。

もう、かなり昔のこと「歌は世につれ、世は歌につれ」という言い回しを、しばしば耳にしていた記憶があります。この言い回し、ある歌番組の名司会者が曲紹介の時に、口上として使ったのが始まりだそうです。今では、そうした言い回しを使う人など、滅多にいないように思いますが……?

それにしても、最近テレビから流れてくる新しい楽曲の歌詞は、聴力の衰えからなのか、ほとんど聴き取ることはできません。従って、覚えることもできないですし、当然、口遊むことなどあり得ないわけです。自然と懐メロを聞くことが多くなります。そんな中高年のためなんでしょうか?  “歌える!J-POP”などと銘打った、80年代、90年代に流行った歌番組が好評のようです。

そうした番組を観ておりますと、紹介される曲がヒットしていた当時の記憶が甦ってきます。しかし、その記憶の一つ一つが心地よく懐かしい記憶ばかりではありません。中には、思い出したくはない記憶を連れてきてしまう曲もあります。

そんな時は「やっぱり、聴くのは童謡や小学唱歌の方が良いよなぁ〜」と思うのであります。それは、蘇る記憶が幼少期や児童と呼ばれていた頃のことばかりで、きっと聴いている間は童心に戻ることができるからなんでしょう。童謡というと、何故だかわかりませんが「みかんの花咲く丘」(作詞:加藤省吾、作曲:海沼實)の歌詞やメロディーが浮かんできます。それは、その歌詞に日本の原風景が見事に描かれており、口遊むとほのぼのとした気持ちにしてくれるからではなかろうかと思っております。

今回の「懐かしき風景」では、まさに童謡「みかんの花咲く丘」に描かれているような、広島県呉市豊町大長(おおちょう)の長閑な風景をご紹介いたします。童謡のメロディーや歌詞の一節などを思い浮かべながら、童心の頃を思い出していただけたら幸いです。

「温州みかん」によって生まれた豊かな町・大長

「みかん」は、日本人にとって最も身近で、親しみのある果物といっても過言ではないでしょう。それだけに、誰しもがみかんに纏わる色々な思い出をお持ちのはず。しかし、それほど身近で親しみのある果物なのに、その歴史や由来、ルーツとなるとご存知無い方も多いのでは?

かく言う私もみかんついて全く知識が無くお恥ずかしい次第。この機会に農林水産省などのホームページで少しだけ勉強をしてみました。

たわわに実をつけた温州みかん(大長みかん)
たわわに実をつけた温州みかん(大長みかん)。

そもそも、みかんとは、皮をむきやすい小型の柑橘(かんきつ)類の総称とのこと。一般的には、最も収穫量の多い「温州みかん」を指す言葉として用いられているそうです。「温州(うんしゅう)」とは、柑橘(かんきつ)類の産地として高名であった中国浙江省(せっこうしょう)の地名。

ところが、「温州みかん」の原産地は中国ではなく、鹿児島県出水郡の長島とされています。何でも、中国から伝わった柑橘類から偶発実生(みしょう)したらしいのです。江戸時代の頃は、タネの多い“紀州みかん”のような小蜜柑(こみかん)が主流で、温州みかんが主流になるのは明治期に入ってからのことだそうです。

暖かい気候を好む温州みかんは、主に関東以西の沿岸地域で栽培されており、収穫量の多い県のトップ3は和歌山、愛媛、静岡、それに九州地方の熊本、長崎が続きます。

久能山東照宮の境内にある徳川家康ゆかりの小蜜柑の木
静岡県・久能山東照宮の境内にある徳川家康ゆかりの小蜜柑の木。

大崎下島・豊町大長でも、明治35年(1902)「青江早生」を本格導入したのをきっかけに、耕作地を広げ県内随一の産地までに成長します。温暖な気候と水はけの良い土壌、陽当たりの良い急な傾斜地を段々畑に開墾し、海からの反射光を利用した栽培方法は、みかん栽培には最適な環境。

こうした環境は、コクのある深い甘味の美味しいみかんを育てます。今では「大長みかん」のブランド名で中・四国地方はもとより全国的にも知られています。十数年前から、国内レモンの需要拡大に伴いレモンへの転作にも積極的に取り組み、現在では国内トップの生産量を誇ります。

そんな大長を訪れたのは、ちょうどみかんの収穫期を迎えて繁忙期でありました。島の何処を観ても“みかん”一色。

JA広島ゆたか(広島ゆたか農業協同組合)みかんの直場所「みかんあいらんど」
JA広島ゆたか(広島ゆたか農業協同組合)みかんの直場所「みかんあいらんど」。

大長港のすぐ傍に在る「JA広島ゆたか(広島ゆたか農業協同組合)」本所に、営農販売部の小川清幸さんをお訪ねして「大長みかん」と町の歴史についてお聞きしました。

「JA広島ゆたか」は、5つの農業協同組合(豊町農業協同組合、大崎下島農業協同組合、豊島農業協同組合、大崎上島農業協同組合、木江町農業協同組合)の合併により設立された農業組合組織。日本で初めて動力式柑橘選果機を導入したり、みかんの缶詰製造を最初に手掛けるなど、先進的な取り組みをしてきた歴史を持つといいます。

そうした精神は今も受け継がれ、斬新な柑橘類の加工食品の開発にも積極的に取り組んでおられるそうです。

みかんの選果作業の情景・JA広島ゆたか本所内
みかんの選果作業の情景・JA広島ゆたか本所内。
「JA広島ゆたか」が販売している様々な柑橘類の加工食品
「JA広島ゆたか」が販売している様々な柑橘類の加工食品。

お忙しい時期にも関わらず、選果場の中を案内していただいた上に、農協の取り組み、農家の高齢化、集落の過疎など様々な問題や課題などを丁寧にご説明いただきました。

町の歴史についてお聞きすると、道路を挟んだ選果場の向かいに在る「みかんメッセージ館」を勧められました。平成26年(2014)6月にオープンした「みかんメッセージ館」では、豊町におけるみかんづくりの歴史や、みかんに込められた情熱や努力を知ることができます。

「みかんメッセージ館」の外観、保存展示されている木造の農船
「みかんメッセージ館」の外観、保存展示されている木造の農船。

特に興味深かったのは、昭和40年頃の大長地区を再現したジオラマ模型と、今では見られなくなりましたが、往時は活躍していた「農船」が保存展示されていたこと。「黄金の島」と表された時代を偲ぶことができました。「みかんメッセージ館」の拝観を終えると、小川さんから「みかんの収穫作業をしておられる、農家さんを訪ねてみませんか?」とお誘いをいただいたのでお言葉に甘えることにしました。

昭和40年頃の大長地区を再現したジオラマ模型
昭和40年頃の大長地区を再現したジオラマ模型。

「黄金の島」がもたらす恵は、美味しいみかんと心身の健康と美しさ

「みかんメッセージ館」の駐車場から、軽自動車に乗せていただき、みかん畑の中をくねくねと曲がりくねった急坂な農道を登っていきます。10分ほど走ると、車は大長地区と安芸灘を見渡せる山の中腹へと辿り着きました。

そこから、少し下ったあたりで車を降り、眼下に広がるみかん畑に向かって、小川さんが「大道(だいどう)さ~ん」と声を掛けますと、下の方から微かに応じる声がしました。しばらくすると、コンテナに山盛りのみかんを積んだモノラックと共に、優しい笑顔の大道正孝(まさたか)さんが登場。その表情からは、温厚なお人柄が滲み出ており、こちらまで穏やかな気持ちになりました。

みかんの収穫作業に勤しむ大道正孝さん
みかんの収穫作業に勤しむ大道正孝さん。

挨拶を交わした後、お年をお聞きすると70歳とのこと。驚き顔をしていると「ここじゃあ、私なんか、まだまだ子供みたいなもんじゃけ。90歳を越しても、元気にみかん作ってる人がおるからね」と笑いながら教えてくれました。遠くを眺めるような眼差しで、大崎下島が「黄金の島」と呼ばれていた頃のことや、平成3年(1991)9月の台風19号襲来によって、みかん園地が壊滅的な被害を受け約3年間もみかんの収穫ができなかったことなどを、朴訥とした語り口調で話してくれました。

収穫作業も見せていただけるということで、急角度の段々畑を下っていきますと、たわわに実ったみかんの森の中から女性の声がします。「こんな遠いところまで、ようこそ……」と、奥さんの大道 敏江(としえ)さんが微笑みながら労いの言葉を掛けてくれました。収穫作業のことをお聞きすると、「作業は大変ですが、日の出と共に作業を始め、日暮れと共に作業を終える。とても健康的な生活ですよ」とニッコリ。

収穫作業の手を休めお話を聞かせくいただいた、大道 敏江さん
収穫作業の手を休めお話を聞かせていただいた、大道敏江さん。

お礼を述べて帰ろうとすると「持って帰りんさい」と数個みかんを摘み取って手渡してくれました。「みかんメッセージ館」の駐車場まで戻る車中で、大道さんから頂戴したみかんを口にしてみると、深みのある柔らかな甘味と僅かな酸っぱさを感じる美味しさ。例えるなら“みかんの歴史を感じさせる味”とでも表現できそうな味わいでした。

2月の下旬まで収穫作業が行われるようです。大長みかんの加工食品を希望される方は、「JA広島ゆたか みかんあいらんど」(フリーダイヤル0120-014-470定休日火曜日)に問い合わせてみると良いでしょう。

「大長みかん」そのまんまの美味しさのジュース
「大長みかん」そのまんまの美味しさのジュース。

「大長みかん」が造り出した日本文化遺産的・景観の集落を歩く

大長を後にする前に、集落の中をゆっくりと歩いてみることにしました。集落は、大長港の奥へ分け入るように延びた「北堀・南堀」と呼ばれる二つの入江を囲むように谷間へ向かって家々が立ち並んでおります。

「北堀・南堀」は、主に農船の船泊まりとして使用された歴史があり、最盛期の昭和30年代には400艘を超える農船で埋め尽くされていたそうです。今では、小型の漁船が僅かに停泊しているのみ。

大長港から入江のように奥へ入り込んだ北堀の全景
大長港から入江のように奥へ入り込んだ北堀の全景。

集落の奥へと足を進めると、漁師町に見られるような細い路地が迷路のように入り組んでおりました。その道幅は非常に狭く、自動車が一台やっと通れるほど。しかし、その細い道路の両側には伝統的日本建築の大きな家屋が幾つも立ち並んでおります。

集落の入り組んだ道路の両脇には、伝統的日本建築の大きな屋敷が並ぶ
集落の入り組んだ道路の両脇には、伝統的日本建築の大きな屋敷が並ぶ。

中には、大正期から昭和初期のハイカラな感じのする洋館風の家も見られ、古い建物が好きな方には興味深く散策が楽しめる集落のように思われました。

特に目を引くのは、時代劇にでも出てきそうな棟門を構えた武家屋敷風の家屋や長屋門を持つ大きな庄屋風の屋敷。地元では「みかん御殿」と呼んでいるそうですが、残念なのは過疎化によって主人を失ってしまったお屋敷も見受けられたことです。

同じ島内の「御手洗地区」のように、この集落の景観も「大長みかん」が造り出した日本文化遺産として、できるだけ長く受け継ぎ守って欲しいと思いました。

「みかん御殿」と呼ばれる棟門を構えた武家屋敷風の御屋敷
「みかん御殿」と呼ばれる棟門を構えた武家屋敷風の御屋敷

今回、大長に住んでおられる方々に接してみて、都会に住む人間として「農業」にもっと近い生活をした方が、心身共に健康的に生きられるのではなかろうかと感じてしまいました。

そうした意味において、定年退職後、街での暮らしを捨てて数年前から単身で大長に暮らしている小川さんの次の言葉は、とても印象深いものでした。

「ここは、気候は穏やか、食べ物も美味しく、人も親切。住むには最高の環境ですよ。何より、ゆっくりとした時間が流れていることが一番気に入ってます」

もしも、田舎暮らしや転地を考えておられるのでしたら、大長地区を候補地の一つとして考えてみてはいかがでしょうか? また、大長を訪れた際には、呉市内にある大和ミュージアムやてつのくじら館など見どころも多いので、合わせて立ち寄られてみてはいかがでしょうか。

ゆっくりとした時間の流れる大長の風景
ゆっくりとした時間の流れる大長の風景。

アクセス情報

所在地:広島県呉市豊町大長5915-4(みかんメッセージ館)
自動車:広島呉道路(クレアライン)呉ICから約1時間30分
バス:JR呉駅前または広駅前バス停から「とびしまライナー」(豊・豊浜方面行)乗車、団地センター バス停下車
協力:呉市観光振興課(くれまちダイアリー

取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook

 

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