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京都府の北部、日本海に突き出した丹後半島の京丹後市丹後町に、間人(たいざ)という地名がある。この奇妙な町名の由来や、同地の間人漁港で水揚げされる稀少な「間人カニ」の旨さについては以前紹介した(詳しい記事はこちら)。今回は京丹後市で昨年11月に開館したばかりの美術館と、丹後半島の景勝地を案内しよう。

まず訪れたのは、京丹後市網野町にある「こころの森美術館」。NPO法人こころの森が運営する美術館で、館長は版画家の幻一(まぼろし・はじめ)さんである。

この美術館は幻さんの作品を常設展示するほか、丹後地方の出身で東京などの都会で活躍している芸術家の作品も積極的に紹介している。講演会や音楽界の会場ともなり、地域の文化活動の拠点となっている。

館長の幻一さん。1942年京都市生まれ。独学で版画を学ぶ。左は「わらべ羅漢」の版木。著書は木版画集『羅漢さん』(春秋社)、『羅漢さん漢字百景』(漢検新書)ほか。

館長の幻一さん。1942年京都市生まれ。独学で版画を学ぶ。左は「わらべ羅漢」の版木。作品集は木版画集『羅漢さん』(春秋社)、『羅漢さん漢字百景』(漢検新書)ほか。

 

幻さんは幼少の頃から絵を描くのが大好きだった。中学3年の時、日本画家の先生に鉛筆デッサンをほめられ、将来は絵描きになろうと決意した。やがて木版画家となり、30代の半ばに「羅漢さん」のテーマに出会った。

高野山で修行していた友人から羅漢の話を聞き、幼い頃に地蔵盆で歌った「数珠回し」の歌「羅漢さんがそろったらまわそうじゃないか…」を思い出したのがきっかけだという。

そこで昭和54年(1979)から、人々の喜怒哀楽を描く「五百羅漢」の版画制作に取りかかった。

その制作方法がちょっと変わっている。

まず漢字一文字を選ぶ。その文字に訓読みをつける。例えば「闘(たたかう)」「尖(とがる)」「祝(いわう)」「惚(ほれる)」など。そして、その文字からふくらんだイメージを羅漢像で表現する。文字からイメージをつかむというのは、いかにも詩人でもある幻さんらしい発想である。

幻さんが彫り出す羅漢像はまさに千変万化。まるで迷える羅漢が葛藤しているようでもある。

幻さんは羅漢さんに何を託したのか? 幻さんは、次のように語る。

「羅漢というのは正式には阿羅漢といいます。悟りを得て、人々の尊敬と施しを受けるに値する人間です。人と仏のあいだにある身近な存在ですね。その羅漢さんをかりて、一所懸命生きる人間の姿やこころの動きを表現したかったのです」

幻さんは19年をかけ500作品の羅漢像を彫り終えた。その間、幻さんに大きな転機が訪れた。

平成元年、自然豊かな地で制作に専念しようと網野町に移住。そして翌年、近くの宗雲寺の住職と話す機会があった。幻さんはその住職の笑顔にすっかり魅了され、その場で出家を決意したという。今は臨済宗の僧侶にして版画家・詩人として各地を飛び回っている。

「五百羅漢」より「闘(たたかう)」。どのような闘いに対座しているかは、見る人の自由に任される。

「五百羅漢」より「闘(たたかう)」。どのような闘いに対座しているかは、見る人の自由に任される。

「五百羅漢」より「尖(とがる)」。こんな瞬間、誰もが思い当たるに違いない。

「五百羅漢」より「尖(とがる)」。こんな瞬間、誰もが思い当たるに違いない。

幻さんが彫る羅漢さんの表情や仕草は人間味に溢れている。その秘密は「酒」にあるらしい。

「わたしの求める羅漢さんは、酒ぬきでは語れません。酒飲みは、飲むほどに、ついつい声高になり、喜怒哀楽が顔に立ち、見ているわたしも同類となります」(幻一著『羅漢さん漢字百景』)。

版画に手彩色した作品。ピリッとした言葉はユーモアいっぱい。

版画に手彩色した作品。ピリッとした言葉はユーモアいっぱい。

展示されている「わらべ地蔵」の作品。館内は畳敷き。ゆっくりくつろぐことができる。

展示されている「わらべ地蔵」の作品。館内は畳敷き。ゆっくりくつろぐことができる。

 

今、幻さんが取り組んでいるのは平成12年から始めた「わらべ羅漢」のシリーズ。孫を授かったのを機に制作を思い立った。

「人間誰でも子供の時代がありましたね。だけど大人になると、当時の心を忘れてしまいます。わらべを通して、人間の初心を伝えたいのです」と幻さんは語る。

これもやはり500作品制作が目標で、完成は孫が成人する4年後の平成32年という。 

「わらべ羅漢」より「良(よし)」と「憶(おもい)」。

「わらべ羅漢」より「良(よし)」と「憶(おもい)」。

 

幻さんの羅漢シリーズはいずれも墨一色。微妙な濃淡があり、画面全体に深みがある。グラデーションのような濃淡は、版木に塗る墨で微妙に調整するという。

豊かなイマジネーションと巧みな版画の技術、そのふたつが見事に融合し、水墨版画とでもいうべき傑作が生み出されている。

「ゆうゆう窯」の備前焼。陶芸作家青木有利子の作品。

「ゆうゆう窯」の備前焼。陶芸作家青木有利子の作品。

 

「こころの森美術館」の一室では、丹波篠山(たんばささやま)の「ゆうゆう窯」の焼物が展示・販売されている。備前焼の作品で、茶器や日常雑器など種類が多い。旅の土産にもおすすめである。

 

厳しい丹後半島の冬の景観

日本海沿岸の天気は変わりやすい。美術館を出ると、外は激しい雨。しばらくすると突然、青空が見えはじめた。ほっとしたのもつかの間、空は再び厚い雲に覆われ、また雨が降り出した。

海岸に純白の波が押し寄せる。息をのむほどの美しさだが、その景観の底には冬の海の厳しさが隠れている。冬の日本海を眺めて日本画のように美しいと思うのは、旅行者の気まぐれかも知れない。

岸に近づくほど波は純白となりくだけ散る。

岸に近づくほど波は純白となりくだけ散る。

どんよりとした空と砕ける白い波が日本海の厳しさを伝える。

どんよりとした空と砕ける白い波が日本海の厳しさを伝える。

間人漁港には5艘の船が行儀よく整列していた。思ったよいも小さな船。真冬のカニ漁の厳しさがそのまま伝わってくる。 

海が荒れて、間人漁港に停泊中の5艘のカニ漁船。

海が荒れて、間人漁港に停泊中の5艘のカニ漁船。

近くの竹野(たかの)漁港。護岸堤防に白い波が押し寄せる。

近くの竹野(たかの)漁港。護岸堤防に白い波が押し寄せる。

 
この辺りは丹後半島の景勝地でもある。最近は、「山陰海岸ジオパーク」の一地域としても注目を集めている。ジオパークとは、地形や温泉などの地質遺産を含んだ自然公園のこと。海岸線に沿ってクルマを走らせると、自然が造り出した「立岩」や「屏風岩」が次々に姿を現す。厳しい景観だが、夏になれば海水浴客や釣り人で賑わうことであろう。 

荒波に洗われる立岩。周囲1km、京都百景のひとつ。

荒波に洗われる立岩。周囲約1km、京都百景のひとつに数えられる。

海の中に立つ屏風岩。高さ13mの奇岩。夕日のスポットとしても人気が高い。

海の中に立つ屏風岩。高さ13mの奇岩。夕日のスポットとしても人気が高い。

 
日本海といえば、やはり夕日である。丹後半島の北部はどこへ行っても夕日が美しい。太陽が水平線と交わり、徐々に溶けて海のかなたに沈んでいく光景は、見る者の心に深く沁み入る。

日本海に沈む夕日。太古から変わらぬ風景である。(写真提供=とト屋)

日本海に沈む夕日。太古から変わらぬ風景である。(写真提供=とト屋)


こころの森美術館

住所/京丹後市網野町下岡1018
電話/0772-72-5686
開館時間/10時~17時、入場無料
休館日/月曜(月曜が祝日の場合は翌日休館)、12月28日~1月5日

文・写真/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。

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