文・写真/陣内真佐子(グアム在住ライター/海外書き人クラブ)
太平洋に浮かぶ温暖な気候と美しい海が魅力的なリゾートアイランドのグアムにはラッテ(LatteまたはLatde)と呼ばれるこけしのような形をした謎の柱石(ちゅうせき)遺跡がある。石の遺跡というと地中海に浮かぶマルタ島とゴゾ島の6つの神殿群が有名だが他にもイギリスのソールズベリー平原にあるストーンヘンジやフランスのカルナック列石、イタリア・サルディーニャ島の要塞のようなスー・ヌラージ・ディ・バルーミニなど世界中に巨石のモニュメントがあるがいずれも誰によってどんな目的で造られたのか謎に包まれたままだ。
氏族間抗争から巨大化していった!?ラッテ
グアムのラッテはハリギ(Haligi)と呼ばれる太く直立した石灰岩または玄武岩の上にタサ(Tåsa)というライブロック=サンゴ岩を加工してできたお椀形のキャップストーン=頭石(かしらいし)がのった二段構造の柱石が通常8〜10基、なかには6または12〜22基が一定間隔で対をなして並んでおり、その高さは1メートル以下の小さなものから大きいものだと5メートルを超すものまで様々だ。このミステリアスな柱石遺跡が機械もない当時の技術でどのように採石、運搬し積み上げられたのかほとんど解明されていない。テニアンのタガ遺跡にある高さ6メートルの柱石やロタのアス・ネベス採石場の溝に放棄されたままの長さ約8メートルのハリギと直径2メートルのタサからグアムをはじめ北マリアナ諸島(CNMI)のラッテは、12,000キロ以上離れたラパヌイ、通称イースター島にあるモアイ像のように氏族間の抗争からどんどん大きなものが造られるようになったのではないかという見解がある。
考古学者たちの研究によると、西暦1100年ごろから1668年スペイン軍による宗教的植民地政策がなされる直前まで古代チャモロ民族はラッテを使っていたと考えられている。島の地質を南北2つに分けるパゴ〜アデラップ断層を境に北西部の沿岸域で発見された柱石は崖や海岸線とほぼ垂直に配置され堆積物に不純物が混じっていないのに対し、南部の沿岸域や河谷(かこく)で発見されたラッテの多くは海岸線と平行に配置され貝殻や魚の骨、陶器の破片など廃棄された家庭ゴミ!?、と思われる破片が混じった濃い色をした堆積物の上に立っているという。またその周りからはオオシャコガイでできた斧、ルソン=石臼(Lusong)など生活に密着した道具が出土している。
礎石説、墓石説、精霊の住処説などがある柱石
1565年1月22日スペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊とともにグアムを訪れた2人の宣教師フレイ・ガスパール・デ・カルバハルとエルナンド・デ・グリヤルバの記録によると、彼らがカサ・デ・ロスアンティゴス=古代人の家(Casa de los Antigos)と名付けた建物は背の高い柱石の上にココナッツの葉で葺いた急勾配の屋根がのった大きなA形をしているグマ・ウリタオ=男たちが集う場(Guma’ uritao)で、その下には4艘の大型カヌーが置かれていた。そしてキッチンや寝室はグマ・ウリタオとは別棟にあり簡素なものだったと書かれていることからラッテストーンはグマ・ラッテ=高床式家屋(Guma Latte)の礎石だったという説が一般的である。しかし当時は今より頻繁に台風が島を襲い、豪風雨のたびに吹き飛ばされイチから建て直さなければならなかった丸太組みに葉葺屋根の家の土台になぜ重さ何十トンもの巨大な石を掘削、運搬して建設する必要があったのだろうという疑問が残る。
1742年8月、英国のフリゲート艦センチュリオン号の艦長ジョージ・アンソン卿が率いる遠征隊が給水のために立ち寄ったテニアンで描かれたスケッチには12基の巨大なタガストーン=ラッテがそびえ立っているだけでその上に家屋は建ってはおらず周りにテントのような小屋と牛豚などの家畜が描かれているだけだ。また1819年マリアナ諸島を訪れたフランスの海軍士官ルイ・ド・フレシネの記録によると島にはチャモリ(CHamorri)とマナチャン(Manachang)という上下2つの階級制度があり、チャモリが亡くなった際には埋葬の前にカヌーを粉砕して帆を裂き、その裂片を彼の家の前に吊るした。そして遺髪を切りマラナンウカン=遺骸(Maranan uchan)を布で包んだのち槍や釣り具などと一緒に土葬したと記されている。海岸沿いのラッテの下とその平行線上にある堆積物から遺骸とともにチャモリ階級のマタオ=最上位者(Matao)とアチャット=次位者(Acha’ot)だけが着用を許されたシナヒ=三日月形のネックレス(Sinahi)やカヌーの破片などが発見されていることからラッテは社会的地位の高い者の墓ではないかという説やチャモロ民族が畏れる精霊タオタオモナが宿る処だという説もある。
1922年から1925年にかけて島内各地にあった約290基のラッテを調べた人類学者ハンス・ホーンボステルが作成した柱石の分布図によると現在観光の中心地であるタモン湾やハガニア湾周辺にもかつては多くのラッテ遺跡が点在していたようだ。また島北部アンダーセン米国空軍基地内にあるタラギやリティディアンなどの海岸沿いでは柱石のほか洞窟内で古代チャモロ民族が描いたピクトグラム=抽象壁画やアルゼンチンのクエバ・デ・ラス・マノスに酷似した手形壁画が発見されている。ホーンボステルが島内で集めた遺骸など2,000ピースにも及ぶ膨大で貴重なコレクションならびにメモとスケッチは彼が資金支援を受けたホノルルのビショップ博物館に収蔵されたが1957年彼の没後、青年期をグアムで過ごしチャモロ文化に精通した妻ガートルードがまとめたグアムの寓話や伝説などとともにコレクションの一部がグアム博物館に寄贈された。
島内で一番有名なラッテがあるのは首都ハガニアのラッテストーン公園だ。グアム政府公園緑地局に働く歴史家ウィリアム・ヘルナンデスによるとラッテとはチャモロ語で「石」を表す言葉なのでラッテストーンという呼び名は奇妙だという。その公園まではタモン地区から車で約25分、マリンコードライブ=1号線を直進し南下して行く。そして右側に酋長キプハの立像があるロータリーを迂回し4号線を直進した先のオブライエン・ドライブを左折したところにある。または赤いシャトルバスに乗車し26番のバス停・アガニアショッピンセンターで下車し10分ほど歩いても行かれる。
娘の死を機に合衆国連邦政府を追求し民族運動の主導者になった男
公園入り口には力強い目で前を見つめるチャモロ民族の自己決定権回復運動の主導者で若くして急逝したエンジェル・レオンゲレロ・サントス元上院議員の像が立っている。
2003年7月6日パーキンソン病で亡くなったサントスは44歳という若さだった。チャモロの貧しい家庭に生まれ18歳から米国空軍に従事していた彼は1990年の、とある日偶然「軍事機密・部外秘」と書かれた米国国防総省(DoD)の報告書を手に入れたのだが、そこには島北部のアンダーセン米国空軍基地周辺の地下水と飲み水が基準値をはるかに超える高濃度な発ガン性物質トリクロロエチレン(TCE)で汚染されている!という衝撃の事実が記されていた。その年の3年前の1月、神経芽細胞腫(しんけいがさいぼうしゅ)という小児ガンで娘のフランシーヌ(享年2歳)を亡くしていた彼は忠誠を誓ってきた米国に裏切られたと感じ、島北部に50箇所、南部に26箇所あった米軍の有機塩素化合物廃棄所の汚染問題を告発し島民に注意を喚起した。
そしてそれをきっかけに米軍を退いた彼は1991年7月21日、先祖伝来の土地を守るため環境汚染問題を根幹に据えた人権団体ナシオン・チャモル(Nasion CHamoru)の前身であるOPI-Rを結成。グアムの歴史的、文化的、経済的福祉とチャモロ語のアイデンティティー保護を提唱し続けた。第二次大戦後、米国が島の61%ものチャモロ民族の土地を奪い、参政権や発言権、投票権も与えられないまま島の若者たちを湾岸戦争に徴兵していく合衆国連邦政府の政策に疑問を呈し、20人のメンバーと共にガバナーズ・コンプレックス前の芝生に1か月座り込み抗議を行なった。1992年には島の絶滅危惧種ファニヒ=マリアナフルーツバット(Fanihi)やココバード=グアムクイナ(Ko’ko’)の保護活動を積極的に行ない、チャモロ民族をまるでファガガ=奴隷(Fa’gaga)のように不当に扱う連邦政府に対し数々のデモ活動をした。
グアムは米国国防総省の沈まぬ航空母艦なのか!?
たしかに米国連邦議会の公聴会などで国防総省の高官たちがしばしばグアムを「太平洋の要塞、米国の沈まぬ航空母艦」などと表現してきたことをみても彼らがグアム島全体を基地と見なしていることがはっきりと分かる。そして驚くべきことに合衆国憲法のテリトリー=領土に関する項目には「テリトリーは合衆国連邦政府の所有物」と明記されている。すなわちグアムは米国国家の所有物に過ぎず基地外に住む民間人のコミュニティは存在していないも同然と等閑視(とうかんし)されており沖縄以上に酷い扱いをされているのだ。
1993年サントスは海軍の軍用地に指定されているデデド・モグフォグ地区にある祖父の土地返還を求め不法占拠をしたり、住宅密集地区を軍用機が訓練飛行することへの抗議として4人のメンバーとティジャン地区にある航空基地のフェンスを登ったりして米軍警察に連行された。そして被告である彼に、戦後米軍が爆発物を廃棄したモンモン地区の叔父の土地周辺の調査や祖父の土地の権利を放棄するよう命じたうえ「異議申し立てをしたいなら議会の審議を通さなければならない」と宣言した米国地方裁判所の判事ジョン・アンピンコへの挑戦として翌年民主党から出馬しみごと上院議員に当選した。しかし2000年1月、7年前の裁判所命令に従わず祖父の土地の権利を主張し続けた彼は法廷侮辱罪で6か月間米国本土の連邦刑務所に収監された。そのニュースを聞いた一部の島民は「サントスの運動は失敗で彼はトラブルメーカーだ」と酷評した。
だが同年7月、上院議員に返り咲いた彼の理解者は増え続け人権団体ナシオン・チャモルのメンバーは5,000人以上になった。そして彼の没後の2005年3月30日、故人の功績と名誉を讃え彼らの集会の拠点であるラッテ公園はエンジェル・レオンゲレロ・サントス上院議員ラッテストーン記念公園と改名され、その式典で彼の銅像が披露された。
ナシオン・チャモル最大の成果は米国が連邦政府の財産とみなし戦後何十年もずっと島民から取り上げたままになっていた土地返還と補償を求めCLT=チャモロ土地信託法(Chamorro Land Trust)を組織化し実施したことだ。1994年ホームステッド法に基づき可決されたCLTにより何千もの土地を持たない低所得層のチャモロが99年間土地をリースできるようになり、何百もの島民が戦後奪われた土地を少しずつ取り戻すことができるようになったが、島の30%近い土地はまだ国防総省が保有しており環境汚染問題も未解決のままである。また、合衆国連邦政府が米国海兵隊のグアム移転協定などの重要事項をグアム政府や島民に諮(はか)ることなく一方的に決定し次々と押しつける体制に反発する声が高まっている。
水没した古代の村で発見された12基のラッテ
公園内にある高さ約2メートルのラッテは現在米国海軍司令部付属機関のあるフェナ貯水池の下に水没した古代の村メポで1951年に発見されたものだ。もともと12基あった柱石のうち状態の良い8基だけをメポに置かれていた当時の位置関係を描いたスケッチをもとに1955年から1956年にかけて再建したもの。短身のハリギの上に幅が広く大きなタサがのっているものや細く長いハリギの上にほぼ同型で小ぶりのタサを反転してのせたようなものなどがある。
現代社会においてラッテはデザイン化され、自動車のライセンスプレート、スクールバスのバス停、商品ロゴやお土産品、アクセサリーなどさまざまなところで使われている。 また一部の島民は庭や玄関先に柱石を飾るなどチャモロ民族のアイデンティティーの象徴になっている。
Senator Angel Leon Guerrero Santos Latte Stone Memorial Park
West O’Brien Drive Hagåtña, Guam 96910
文・写真/陣内 真佐子(グアム在住ライター)
東京都生まれ。1996年3月からグアム在住。2005〜2011年グアム旅行で困った際に使えると評判の英語・チャモロ語・日本語に特化した旅行会話本3冊を上梓。2010年に政府公認ガイド資格を取得。その知識を活かし、2015年からは大手旅行情報誌のグアム特派員としてブログ活動をこなしながら、他にも雑誌やWEBなど数多くの記事執筆や翻訳活動をしている。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。