文/鈴木拓也
主に定年前後に別の職業に就く、「セカンドキャリア」という言葉を最近よく聞くようになった。
「転職」と違い、これには「第二の人生における職業」という重みづけが含意されており、当事者にとっては、人生の一大決心になることも。特に女性は、周囲にロールモデルとなるような人も少なく、迷い悩むことは少なくない。
東京で、立教大学の学科長と精神科医と文筆家の三足のわらじを履いていた香山リカさんも、その1人。定年を意識してというわけではないが、いくつかのきっかけが重なって「へき地医療」というセカンドキャリアを選んだ。
今は、人口2千人強のむかわ町穂別地区(北海道)の診療所に勤務する香山さんだが、第二の人生に至ったいきさつを著書『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)に記している。
最初のきっかけは偶然の再会
香山さんが診療所に着任したのは2022年だが、へき地医療を意識し始めたのは、それよりもずっと前だという。
最初のきっかけは、講演を終えて東京に戻ろうと、女満別空港にいたときのこと。そこで大学時代の同級生「H君」に偶然出会う。当初は、都内の研究所で基礎研究に従事していたH君であったが、へき地医療を志してオホーツク地方の診療所などで働くようになったと、香山さんに打ち明けた。
その後、徳島の山間部の医院で働く別の同級生にも会い、香山さんの心は動き始める。
――私も……いつかは地域医療の仕事をやってみたいかも。それもなるべく都市部じゃなくて、医師不足に悩む地域の「へき地診療所」のようなところで働いてみたい……。
(本書41~42pより)
その後、2019年に亡くなった香山さんの母親が、生前よく口にしていた「60代で自分の人生を楽しまなきゃダメ」といった言葉に押されるなどして、香山さんはへき地医療のセカンドキャリアへの決心を固める。
お断りメールの嵐に心が折れかけるが……
香山さんは、そう心に決めたものの、現実的な問題がいくつか立ちはだかった。
一番大きいのは、精神科以外の臨床経験がほとんど皆無に近いこと。そして、日ごろ多忙な身であること。
大学で教鞭をとり、精神科の外来や産業医の仕事もこなし、へき地医療で求められる総合診療(プライマリ・ケア)の医師となるべくトレーニングを受けるのは、相当厳しいものがあった。
だが、勤務先の大学から1年間の研究休暇が与えられたことが、突破口となる。この期間は授業や教授会などの業務から離れられ、かなりの時間的余力が得られる。
香山さんは、再研修の医師を受け入れてくれそうな医療機関に片っ端からメールを送った。しかし、それらのすべてから断りの返信がきて、途方に暮れてしまう。
一条の光が差し込んだのは、母校である東京医科大学であった。香山さんは、そこの大学病院でプライマリ・ケアの研修医を募集しているのをホームページで知る。
さっそくメールを送ったところ、すぐ返事がきた。
「先生が覚えているかどうかはわかりませんが、私は先生の2学年下なんですよ。学生時代の先生のことは覚えてます。ここでは先生みたいな人もこれまでたくさん研修に来てましたので、どうぞいつでもお越しください」
私が「やった!」と小躍りしたのは言うまでもない。(本書64pより)
香山さんは、研究休暇の期間中は週に1~2日、以後もときどき、母校の総合診療科で外来診療を担当。他の先生のアシストを受けながら、総合診療医としての腕を磨いていった。
恐竜が導いた運命の糸
研究休暇から復帰し、繁忙な大学の業務やコロナ禍による足踏み状態を経て、香山さんは具体的なセカンドキャリア活動を開始した。
勤務先の条件は、都市部から離れていて、医師ひとり体制でなく、外科手術もないところ。いくつか候補が挙がるなか、札幌市から車で約2時間のところにある「むかわ町国民健康保険穂別診療所」に白羽の矢を立てたのには、意外な理由があった。
それは「恐竜」。
さかのぼる2019年、香山さんは、弟家族が上京したおりに、恐竜が登場する科学エンターテインメントショーを一緒に見に行き、それから間もなく国立科学博物館で開催された「恐竜博2019」には1人で行った。10代の頃、古生物学に興味を持っていたこともあり、恐竜愛ともいうべきものが芽生えたようだ。特に、恐竜博で展示されていたカムイサウルスの全身化石が心から離れなかったという。
このカムイサウルスが発掘されたのが、むかわ町穂別で、穂別診療所のそばには、この化石を収蔵するむかわ町穂別博物館がある。
香山さんは、運命のようなものを、この診療所の求人案内に感じたに違いない。診療所側との採用の面談はとんとん拍子に進み、香山さんは、晴れてそこの医師として着任する。へき地医療のことを考え始めてから、6年余りの月日が経過していた。
朝は早く、仕事は忙しく、冬は寒い。穂別での日々は、決して楽しさいっぱいとはいかないようだが、香山さんの人生が充実していることは、読んでいてもわかる。本書はセカンドキャリアの指南書ではないが、第二の人生を模索している人にとって得るものは大きい。ぜひとも一読をすすめたい。
【今日の定年後の暮らしに役立つ1冊】
『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。