「この人と、結婚するんだ」と直感して結婚
そんな光一さんは、40歳のときに妻に出会った。渋谷の居酒屋で隣合わせになったのが縁だったという。
「ノリが軽い先輩と二人で飲んでいて、隣の席に彼女と彼女の後輩がいた。彼女は小学校の先生をしており、そこで研究授業の指導をしていたんです。ハキハキものを言っていたから、“おっかない女だな”と思ったけど、話を聞いているうちに、気持ちよくなっちゃったんですよ。多分私は、彼女の声や喋り方も好きだったんでしょうね」
ノリが軽い先輩が、「みんなで飲もうよ」と誘い、彼女と後輩は応じた。目と目があったときに「この人と結婚するんだ」と思った。
「強烈な直感。エンストしていた社長の車を牽引することを決めたとき以上の感覚があり、その日のうちに結婚を前提に付き合ってほしいと言いました。向こうも驚いていたけれど、その1年後には結婚式でした。燃えるような恋ではないんです。確信というか、そういう直感って仕事をしているとどんどん冴えてくるし、それに従わないとうまくいかない」
その2年後に息子が生まれると、妻は教師を辞め、学習塾の先生になった。
「結婚してからは、ますます仕事に取り組みました。家は信頼できる女性が守ってくれて、可愛い息子がいる。上出来の人生ですよ。でも結婚20年で妻が死ぬと知っていたら、もっと違った人生があったと思います。妻は私が出張続きなことや、誕生日やクリスマスのイベントを忘れることを怒っていました。こんなに早く別れがくるなら、毎年、盛大に祝ってやればよかった」
とはいえ、妻も自立している女性だ。そんな夫に見切りをつけ、友達の家族や母や妹と遊びに行っていた。「うちは母子家庭」と冗談を言っていたこともあったという。
「でも、家族旅行のときはすごく楽しそうにしていた。だからどんなに忙しくても、年に1回は旅行していた。妻からがんを告げられたとき、なんでもっと旅行をしなかったんだろう、子供が小さいときに時間を過ごさなかったんだろうと後悔しました」
妻は51歳のときに、子宮がんが見つかったという。病院が大嫌いで、独自の健康法を信じており、学校の先生を辞めてから、人間ドッグをはじめとする定期検診は一切受けていなかった。
「妻の口癖は、“私は大丈夫”。でもそれって、なんの根拠もないんですよ。思えば、生理の出血や不正出血でシーツが汚れていましたし、バスタオルが真っ赤になっていたこともありました。僕は男兄弟しかいない環境で育っているから、女性の体のことなんてわからないし、そういうことは触れてはいけないようにも感じていました。それに妻に“女性はこんなもんだ”と言われれば、はいそうですかと言うしかありません」
妻から、がんのことを言われたのは、定年1か月前だった。息子はまだ18歳で学費もかかる。65歳まで働く予定だったが、妻の看病に専念するために、仕事を続けるのは辞めた。
【新婚時代のような1年間を過ごし、妻は52歳で亡くなる……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。