育児優先、妻の乳がんの看病で会社を休んだ結果……
大学時代に徹底的に遊べば、成績も悪い。当然、就職活動はうまくいかなかった。当時は1970年代後半だ。当時の日本は、「モノづくりの日本」と言われており、理系の学生の人気企業は、日立製作所、東京芝浦電気、日本電気、ソニーなど、メーカーが多かったという。
「国の発展に寄与するメーカーは、僕にとっては雲の上の企業。一応、工学部だから、そういう会社に入りたかったわけ。でも、全部落とされた。そこでにっちもさっちも行かなくなって、六本木でバーテンダーの見習いのようなことをしていたら、お客さんから“俺の会社に入らない?”と言われたんですよ。それが先代の社長の右腕と言われた人だった」
ここでチャンスを逃したら、昼の仕事はできないのではないかと直感した直之さんは、入社する。最初に配属されたのは営業で、まさに24時間仕事をしているような状態だったという。
「すごく大変だったけど、楽しかった。世の中が右肩上がりになっているから、給料もよかった。成績がよければ、インセンティブ(奨励金)が入った」
20〜40代前半をトップ営業マンとして過ごし、30代で管理職になった。32歳の時に2歳年上の女性社員と結婚して、息子を授かった。順風満帆の人生だった。
営業マンとして、会社の発展に大きく寄与したのに、役員にはならなかった。
「なれなかった、と言った方が正しい。僕が役員への切符を手にする40代後半はそれなりに会社も大きくなっていたので、いい学歴の人じゃないと上には食い込めなかった。それに、息子の学校行事を優先し、カミさんの乳がんとうつの看病でよく休んでいた期間もあったので、マイナス評価をされたんだろうね」
トップ集団に入れず、役員には手が届かないと感じた52歳の時にいろんなことが楽になったという。給料は悪くない、家も買った、息子も大学に入った。妻との仲も悪くない。
「それと同時に、欲望がなくなった。あれもしたい、これも欲しいという気持ちがフッと消えちゃった。この時に、僕の人生は終わった、と。当時、彼女もいたんだけど、別れてしまったんだ」
直之さんは、容姿、経済的豊かさ、家族に恵まれているが、本当に欲しいもの……努力と運で手に入れるものが得られない。65歳まで働ける道もあったが、新卒以下の給料で、今までの部下と立場が逆転し、働く道は考えられずに定年退職する。その空洞を埋めるかのように、酒に飲まれるようになっていった。
【定年後は朝から酒が飲めるという自由を得ることだった……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。