認知症になるのだけが心配

洋一さんの現在の仕事は、資産管理だ。再雇用の話もあったが、お金があるので断った。

「妻とともに三浦半島に無垢の木と漆喰の家を建てて、海を眺めながら暮らす予定でしたからね。娘は私の定年の時に27歳になるのだから、結婚しているとも思っていました。今は、父の不動産資産を管理するのが仕事みたいなもの」

父について聞くと、女優を妻にしただけあり、かなりさばけた人物だった。父は、毎日スポーツクラブに通い、ガールフレンドもいる。外資系の会社に勤務していたこともあり、海外旅行も頻繁に行くという。

「この間、父がスマホばかり見ていることに気付いて、聞くとSNSをやっていたことに驚きました。私は妻にも娘にもSNSを禁止していた。あれほど情報が盗まれるとんでもないものに夢中になるのは人生を無意味にすると思っていました」

洋一さんを育てたお手伝いさん兼家庭教師の“シズさん”について聞いた。シズさんは、戦前の女学校を出ている厳しい女性で、洋一さんの母を憎んでいた。そして、洋一さんに勉強と努力と我慢の大切さを徹底的に仕込んだ。

「シズさんは僕が大学生の時に、脳溢血で死んでしまったんです。あとで知ったことですが、シズさんと父は愛人関係にあったようです。だから母をこき下ろしたのかもしれません」

今の幸せについて聞くと「特にない」という。ただ、心配事はあり、自分が認知症にならないことだという。

「父は老人らしからぬ、お盛んな人なのでその心配はないと思います。でも、施設に入れたりしなくちゃならないのかな。父を見ていると、仕事を離れてもいろんな人間関係があって、うらやましく思うこともありますよ」

洋一さんは、「楽しむことを我慢することが美徳だ」と教えられており、遊んだり、快楽に身を任せることができない。また、与えられるミッションを遂行し続けて生きてきたために、指示がないとどうしていいかわからない。

「お金があってもなにもない。僕はひとり息子できょうだいもいない。父の親戚もすでに病没しており、父が亡くなってしまえば、家族はいなくなる。この前、母について調べてもらったら、別の人と結婚して幸せな人生を送っていました。子供が3人、孫が5人いたんです。てっきり、身を持ち崩して生活保護をうけているのかと思ったら、現実は全然違った」

洋一さんは、母は不幸になっていると思い込んでいた。だから、助けようと思って調査をしたのだ。しかし、その必要はなかった。今の洋一さんが行っているのは、父の資産管理と、家の手入れだという。

「仕事から離れてしまうと、何もないって気付きます。定年後は後輩も友達もあてにならない。趣味をしても空しいだけだ」と語る。その空間を埋めるために、2か月前から犬を飼いはじめた。その犬がひたむきに自分を慕うので、心が満たされていると語っていた。

定年後の心を満たすのは「誰かから必要とされる」ことなのだ。その関係づくりをすることが、人生を豊かにするために大切なのかもしれない。

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。

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