避難所でのトイレが嫌で、生理が止まった
体感ではすごく長い時間揺れていたという。揺れがおさまってからも恐怖でベッドの下からでることができず、じっとしていたところ両親から名前を呼ばれていることに気づいた。
「『大丈夫? 返事して』という親の声が聞こえてきました。その声に先に兄が反応して、私もその後に返事して、家族は全員無事なんだと真っ暗な中で思いました。
父親から『その場から動くな』と言われたので、夜明けの明るさで部屋の状態が見えるまでじっとしていました」
明るくなると見えてきた部屋の状態。タンスや食器棚などの家具はすべて倒れ、ピアノは倒れてはいないものの数十センチも動いていた。家族が全員無事だったことで家族の雰囲気は普通だったが、停電が解消されると街の現状が次々に報道されていき、余震におびえるようになっていったという。
「電気はすぐに復旧したんです。たしか数時間で。テレビをつけると全部が臨時のニュースに変わっていて、私たち子どもたちの前では明るく振る舞っていた両親も絶句していました。
その後は鳴りやまない救急車の音に、ニュースの度に増えていく死傷者の数、そしてテレビに映る変わり果てた街並み。もう日常に戻れないのかなって思いました」
当時中学2年生だった恭子さんが一番困ったのはトイレだった。水道も止まっており、トイレは避難所になっていた小学校にまで行く必要があった。当時の小学校のトイレは入口のドアがない状態で、地震で水道も止まっていたため入る前に少ない水を渡されていた。元々キレイな状態ではなかったトイレには多くの大人たちが出入りしていて、苦痛を感じていたと訴える。
「便通はあるほうだったんですが、便秘になりました。というか、我慢していたら出なくなりました。あの水の量では、もし流れなかったら……と不安で。
それに、震災の数か月前に初めて生理が始まった時期だったんですが、中3まで戻ってきませんでした。生理になったらもっと頻繁にトイレに通わないといけないから、結果的にはよかったんですけど、生理が止まってしまうくらいにはストレスがあったんだと思います」
ご近所さんとの助け合いなど温かい関わり合いもあれば、報道されない被災地での闇もあった。
【~その2~に続きます】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。