「ゴルフレッスンをキャンセルさせればよかった」
妻の死はあっけなかったという。退職した後の妻は、登山やワークアウトなどの趣味の活動をしたり、友人の会社のサイト構築を手伝ったりして、充実した毎日を過ごしていた。
「亡くなる数日前、妻はハイキング仲間と高原に行き、1泊2日で40キロを歩きました。その日は台風が接近しており、妻の仲間たちはもう1泊するという。妻は“夫がいるから”と家に帰ったそうです。でも、電車は途中で止まってしまい、疲れ果てていたはずなのに、駅で夜明かしをした。そのときに、妻は急病人の看護を手伝ったそうです」
翌日の始発、妻は疲労困憊で帰宅する。それにも関わらず、妻は予約していたゴルフレッスンに行った。律儀な妻はキャンセルを極度に嫌ったという。その後、疲労を取るためにサウナに行き、マッサージを受けて、19時に帰って来た。
夕飯の支度をしようと台所に立ったところで、倒れてしまったようだ。広司さんはそのときに、シャワーを浴びていた。倒れている妻を見て、慌てて救急車を呼ぶ。
「名前が付く病気をしたことがないので、心のどこかで大丈夫だろうと思っていました。しかし、診察を担当した医師は“奥さまの心臓が弱っています”と告げてくる。何が何でも妻を助けてほしくて、延命措置をしてもらいました。電気ショックと心臓マッサージを繰り返したのですが、妻は59歳であの世に旅立って行ったのです。そのとき、ゴルフレッスンを恨みました。キャンセルさせればよかった」
妻はその日の朝、疲れた顔をしながらも「ただいま」と笑って帰ってきた。そして広司さんは得意のたらこスパゲティをつくる。妻はハート形の笑顔を浮かべ、フォークでくるくる巻きながら口に運んでいた。「ゴルフ、今日は休みなよ」と言ったのに、「休んじゃ悪いからさ」とレッスンに行った。そして、その夜に亡くなったのだ。
「ホントにあっけなかった。だから、“死んだ”って意識がないんです。葬儀や死後の事務に忙殺されて、数日間の記憶がありません。そうだ、妻の戸籍を集めたら、実は妻には離婚歴があったんです。24歳で結婚し、26歳で離婚していた。そんなことも知らなかった。妻が公平であろうとするところ、理知的な物言いは、一度、結婚に失敗していたからなんだと思い至ったのです」
そして、広司さんは「後悔だらけなんです」と涙を流した。
「命ははかない。本当にはかない。もっと一緒にいればよかった、老後資金だとケチらずに旅をすればよかった。あとは、妻の話をもっと聞けばよかった。そう、お互いの死について話せばよかったんです」
妻の死後から半年が経過し、遺品整理をした。そのとき、エンディングノートを見つける。銀行口座の暗証番号、SNSのIDとパスワード、誰に葬式を伝えてほしいかなどと、連絡先が書いてあった。
「誰一人、僕の知らない人です。妻は“結婚式はしなくても、葬式は大切。きちんと別れをすることで、それぞれの人生を歩める”とありました。それなのに、僕は家族葬にしてしまった。あと、妻には恋人もいた。10歳年下で同じ会社に勤務する既婚者です。まあそれはいい。それよりもつらかったのは、エンディングノートに、救急救命措置について書いてあったこと。そこには、“心臓マッサージは痛いらしい。肋骨が折れることもあるんだって。私には絶対にしないでほしい。痛いまま死ぬのは嫌だ”と書かれていたんです」
それを読んだとき、妻に馬乗りになって、強い力で胸を圧迫する大柄な医師の姿を思い出した。医師は必死で妻を蘇生させるために全力を尽くしていた。広司さんはその姿を頼もしいと思った。でもそれを妻は望んでいなかった。
「死に際にして、なにひとつ妻の望みを叶えていなかった。頭が殴られるくらいの衝撃でした。ほかにも、葬式の希望、娘への思いなどが書かれていた。僕については“コーちゃんと結婚して幸せだ”とありました。そこに救われた」
突然死だったから、妻が死んだという事実を実際には理解できていないという。夜中にふと目覚めたときに、隣のベッドに気配を感じ、そしてベッドにもぐりこんでくるのではないかと。
「でも、この世にいないんですよね。ここまで悲しくなるのは、いなくなる数年前に体を重ねていたからだと思います。もしかすると、妻は死期を知っていたのではないかと。そして残りの20年以上分の愛情を僕に残していったのではないかと」
だからこそ、底知れないさみしさと、悲しみに襲われ「あぁ、もう、一人になってしまった」と泣き崩れることもあるそう。それと同時に、心臓マッサージを施す医師の額の汗が強烈に浮かび、ひそやかな家族葬にしたことを想起する。そのたびに「妻になんてことをしてしまったんだ」という底が見えない沼のような後悔がやってきて、時々叫んでしまうという。
人は必ず死ぬ。だからこそ、伴侶と死について話し合うべきなのだ。残された時間は短いのだから。それは伴侶がいない人生をたった一人で、後悔をすることなく生きていくことにもつながっているからだ。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』『不倫女子のリアル』(小学館新書)がある。











