東京でいざというときに頼れる人は一人もいなかった
営業先も不景気になり、広告出稿は著しく減少。仕事がない状態になり、週5勤務から週4、そして週3となっていく。担当していた仕事は、景気回復したら……という未来に対しての企画書作りというモチベーションが上がらないものだったとか。
「仕事はどこまでやったらいいのかさえわからない企画書作り。そして週3勤務になって、もちろん前の職場よりも給料は大幅に下がりました。
コロナ禍が少し落ち着いてきた時期ではあったものの、私自身はまだ怖くて、自ら街に出ようという気も起こりませんでした」
新型コロナに対する恐怖は「もしかかってしまったら誰も助けに来てくれない」という状況が強くしていたという。
「自粛になる前から、元同僚の友人たちとは関係が希薄になってきていました。リモート飲みとかに誘われることもなく、たまにLINEをするだけ。そんな関係ではもしもの状況のときに親身になってくれるわけありません。
親に頼ろうとも田舎からわざわざ感染リスクの高い東京に呼べない。それに上京の理由だった彼氏と別れたときから、東京にいる理由をいつも聞かれていて。上手く答えられないから、聞かれないようにと自然と距離を取ってしまっていたんです」
感染者が落ち着いてきた11月より職場は以前のようにリモートと出勤を選択できるようになった。今日子さんが選択したのはリモートの継続。そして、そのまま2021年いっぱいで退職した。2022年から高校時代ぶりに岡山県に戻ることが決まっている。
「今はオミクロン株という新種が出てきているので、人流が増加するお正月は東京でゆっくりして、その後に岡山に戻るつもりです。
仕事を辞めることは、親から『戻って来い』の言葉が欲しくて私から言いました。もう一人で東京で暮らしていたくはありません。コロナ前に作った浅く広い人脈はすべて無くなってしまいましたから。こちらから連絡すれば、もしかしたらまた繋がれる関係があるかもしれないけれど、また東京でイチからという気持ちにはなれませんでした」
今日子さんがコロナ前に東京で作った人脈と仕事は、コロナ禍によってすべて手放すことになった。
正しくは、仕事については今日子さんから辞めるという選択をしたのだが、部署の縮小によりまったく別の部署へ異動が伝えられていたという。異動させられた人の中に今日子さんよりも早く退職した人がいて、「自分も辞めよう」と決意できたとのこと。
「自分より先に選択できる人を見ないと、まだ動けないみたいです」とスッキリした顔で語る。
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。