取材・文/長嶺超輝

あまり知られていないが、裁判官には、契約や相続などのトラブルを裁く「民事裁判官」と、犯罪を専門に裁く「刑事裁判官」で分かれている。片方がもう片方へ転身することはほとんど起きず、刑事裁判官は弁護士に転身するか65歳の定年を迎えるまで、ひたすら世の中の犯罪を裁き続ける。

では、刑事裁判官は、何の専門家なのだろうか。日本の裁判所は「できるだけ裁判を滞らせず、効率よく判決を出せる」人材を出世ルートに乗せる。判決を片付けた数は評価されるが、判決を出したその相手が、再び犯罪に手を染めないよう働きかけたかどうかは、人事評価で一切考慮されない。

その一方、「人を裁く人」としての重責を胸に秘め、目の前の被告人にとって大切なことを改めて気づかせ、科された刑罰を納得させ、再犯を防ぐためのきっかけを作ることで、法廷から世の中の平和を守ろうとしている裁判官がいる。

刑事訴訟規則221条は「裁判長は、判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる」と定める。この訓戒こそが、新聞やテレビなどでしばしば報じられている、いわゆる「説諭」である。

今回は、もう20年以上前のことになるが、中学生男子が悪質運転の乗用車にはねられて死亡した交通事故と、その裁判で、ひとりの裁判官が苦悩と覚悟の末に示した印象的な説諭についてお送りしたい。

2019年、交通事故によって死亡した犠牲者の数は全国で3215人で、減少の一途をたどっている。ただ、その事故の当時は交通事故の年間死亡者数が1万人を優に超えている頃。

しかも、悪質な運転行為による人身事故を起こした者に対して、故意犯に準ずるほどの厳罰に処する「危険運転致死傷罪」も定められていなかった。

周囲のみんなに貢献する気持ちが強かった中学生

「行ってきます!」
「忘れ物、ない? 気をつけてね」

母は玄関で、ブレザー姿の息子の襟を整える。
今朝もまた、いつもと同じ朝だと思っていた。
いや、それすら意識しないほど、ごくありふれた日常を送っていた。

母にとって、40歳を目前にしてようやく授かった子宝だった。
生活には決して余裕はなかった。パート勤務で得られる収入によって、細腕ひとつで育て上げる覚悟を決めていた。
息子の成長こそが、母の喜びであり、生き甲斐そのものであった。

息子は中学2年生。成績は優秀で、学年順位は常に1桁をキープしており、教師らからも将来を嘱望されていた。
将来の大学進学を視野に入れつつも、母に経済的な負担を掛けまいとして、公立の進学校に進むため、中学に上がったばかりの頃から高校受験を意識していた。

放課後、すぐに遊びに帰るクラスメイトたちを尻目に、彼は教室や図書室で居残って勉強をしていたのである。
学習塾に通いたいという本音もあったが、我が家にそのような余裕がないことは、彼も理解していた。
そこで、校門が閉まるまでの間、放課後も学校で自習をし、わからないことがあれば、いつでも職員室の教師に質問をしに行けるようにしていたのである。

ほぼひとりで教室や図書室を使わせてもらうことに、負い目を感じていたのか、彼は勉強が済んだときに、床の掃き掃除や窓ガラスの拭き掃除、あるいは花瓶の水の交換などを自主的に行っていた。

その様子は、校舎内で活動することが多い文化系の部活動をしているクラスメイトも度々目撃していた。ひとりで密かにみんなのために動いている彼を見かねて、部活終わりにその掃除を手伝う友人も現れた。
その友人たちに、彼はひとりひとり、礼を言い、頭を下げていた。

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