取材・文/末原美裕

人に歴史あり。人がこよなく愛する物には決して忘れえぬ物語が在る──。

これまで、事業や活動を通して社会に貢献をしてきた名士にはどのような「フィロソフィー」、「人間としてのこだわり」があるのだろうか。名士が大切にする「逸品」を通して、人となりを紐解いていく。
かつて“企業戦士”として働いた、現役時代の思い出と重ね合わせながら、遠い記憶の中に眠りかけている“企業人としての誇り”を再び呼び起こしていこう。


第一回目のゲストは、オムロン株式会社(以下、オムロン)の名誉顧問であり、京都商工会議所の会頭を2020年3月末まで務められる、立石義雄(たていし よしお)さんだ。
オムロンは主力のオートメーション機器をはじめ、電気製品や自動車に組み込まれる電子部品、ATMや自動改札機、ヘルスケア機器に至るまで、事業を多角的に展開している、エクセレントカンパニー。立石さんは、1987年から16年間の長きに渡り社長としてオムロンの舵取り役を担ってきた。

そんな立石さんが紹介してくださる逸品は、「能面」だ。

■4年間の努力の証である、“能面”

能面自体の手入れはしていないそうだが、年月を経た今もなお美しい。

「大学時代は観世流の能楽部に所属していました。4回生の卒業公演の時に『蝉丸(せみまる)』の逆髪(さかがみ)役を京都観世会館で演じたんです。それを見ていた父から“おまえは努力家だな”と言われ、卒業記念として、この能面・“孫次郎”をいただきました」

高校2年生の時に、父でありオムロンの前身である立石電機創業者の立石一真さんに能楽の世界へといざなわれたという。中学・高校とバレーボール部に所属し、体を動かす「動」の世界中心だった立石さんは、能楽の幽玄な「静」の世界が放つ魅力に引き込まれたそうだ。

「父は先々代の梅若六郎師匠について、能の謡曲を熱心に稽古していたんです。謡曲にはシテやツレ、ワキの役がいりますから、付き合う相手が欲しくて声をかけられました。謡曲は弟妹含め3人で始めたのですが、私以外はみんな脱落してしまいましたね(笑)。
『静』の世界といっても、能楽部の活動は運動部と同等以上に厳しいものでした。1週間の合宿もあり、起きてから寝るまで稽古、稽古の日々。座りっぱなし、謡いっぱなしで、2日目には喉が潰れてしまいました。氷砂糖を舐めながら、練習していたことを今でも思い出しますよ」

そうした4年間を経て、卒業公演では難曲と言われる『蝉丸』の逆髪役に、部活動の指導役でもある、観世流の井上嘉久先生に抜擢されたという。
能の曲目『蝉丸』とは、逢坂山(おうさかやま)に捨てられることとなった盲目の皇子・蝉丸と、放浪の旅に出る狂乱の皇女・逆髪の別れねばならない人間の運命を描いた悲劇だ。

「舞台で演じている際にお面から見える、心配そうな父の姿が印象的でした。しかし、公演後には“おまえは努力家だな”と褒めてくれました。そうして卒業の記念に、能面をもらうことになったんです」

立石さんの能面は、能面師として初めて無形文化財選定保存技術保持者の選定をうけた、古彩色の第一人者でもある長澤氏春さんの制作によるものだ。
能面・“孫次郎”は、落ち着いた雰囲気と柔和な面持ちで成熟した優美さを感じさせ、理想の女性像を表していると言われている。

インタビュー中、ひょいと面を被り、皆を和ませてくださる立石さん。

「一生懸命、真面目に稽古を続ければ、見ている人、聞いている人の心に伝えられ、そして喜んでもらうことができる──。
人間、頭脳明晰な人もいますけど、私はそうではなかった。けれど、この能面を受け取った時に、コツコツ努力をしたら報われるものだという思いになりましたね。私にとって、努力が報われた瞬間でした」

以来、ビジネスなどの大きな局面で決断を迫られた時、この能面は、「努力」への動機付けとなり、挑戦心を湧き立たせてくれるよき存在になっているそうだ。

■能が教えてくれた「人の幸せは我が喜び」

「創業者の父の人生訓である『最もよく人を幸せにする人が、最もよく幸せになる』という言葉は常に聞かされていました。
それをもじって、私は『人の幸せを我が喜びとする』ということを自分の人生訓にしています。大学時代に打ち込んだ能を通じて、人に喜んでもらうことが大事なことだと思っています」

オムロンに携わるだけでなく、立石さんは約13年にわたり、京都商工会議所の会頭を務められ、2020年3月末にご勇退される。

「個人でも会社でも、私は、中期・長期でのビジョンを掲げることで、それに向かって皆が力を合わせて挑戦していけるようにしています。京都商工会議所では、ニュー京商ビジョンとして『知恵産業のまち・京都の推進』を掲げました。大量生産、大量消費の時代から、知恵を付加価値の源泉にした産業に変わるだろうという思いが当時からあったんです。その思いは、京都府、京都市の行政にも伝わり、今ではオール京都で知恵ビジネスを発掘・育成しています。それが会頭を務めた13年の中で1番の思い出ですね。
このビジョンから生まれた、一般社団法人京都知恵産業創造の森の理事長も仰せつかっています。 “辞めろ”と言われるまで続けますよ(笑)」

他にも、京都の花街の振興を支援する、公益社団法人京都伝統技芸(ぎげい)振興財団(通称・おおきに財団)の理事長を務められている。「これも能楽との縁かもしれない」と微笑む立石さん。

人を幸せにする一筋の道は、この先も続いていく。

 

■立石義雄(たていし・よしお)
1939年生まれ。父親が創業した立石電機(現オムロン)に1963年入社。社長、会長を歴任し、現在は名誉顧問。2007年から京都商工会議所会頭を務める。2016年、京都伝統伎芸振興財団の理事長に就任。2018年、京都知恵産業創造の森の理事長に就任。(※略歴は2020年3月現在のものです)

撮影/梅田彩華
取材・文/末原美裕
小学館で11年間雑誌の編集部門において実務経験を経たのちに独立。フリーの編集者・ライター・Webディレクターに。京都メディアライン(https://kyotomedialine.com Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/)代表。2014年、文化と自然豊かな京都に移住。

 

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