今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「僕の一身にとってこの落第は非常に薬になったように思われる。もしそのとき落第せず、ただごまかしてばかり通って来たら今頃はどんな者になっていたか知れないと思う」
--夏目漱石
夏目漱石というと、帝国大学(現・東大)卒、文部省派遣の給費留学生で、典型的な優等生のエリートというイメージがある。事実その通りなのだが、一方で、一高在学中に落第も経験している。
しかし、このことが却って薬となり、漱石は以降、一高で首席を通し、大学でも特待生となったのである。
「若い頃に一度くらいは挫折を経験してもいいのだ」「変にごまかして切り抜けることを覚えるより、つまずく方がよい」と、漱石は言っているのだろう。むしろその方が、人間的な奥行きを獲得するいい機会にもなるのだよ、と。
談話筆記『落第』の中に記されたことばである。
作家の志賀直哉も学習院中等科時代、二度の落第をしている。自転車や漕艇などの運動に熱中し、学業を怠った結果だった。だが、そこに人生の転機があった。
二度の落第で、志賀は武者小路実篤と同級となり、以降、生涯にわたって篤い友情を育み保持していくのである。のちの白樺派の芸術運動も、この両人が核となった。
こうした出逢いも、落第による効用と言えなくもない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。