文・写真/新妻東一(海外書き人クラブ/ベトナム在住ライター)
21時30分、ハノイ駅。夜も遅いのに待合室には外国人を含む観光客でいっぱいだ。
22時ちょうどにハノイ駅を出発するラオカイ駅行きSP3号に乗車して、中越国境の山岳地方への旅に出かける人たち。

この日、私は友人とその山岳地方に茶畑の取材に行く。自動車をチャーターして高速道路でラオカイまで行っても良いのだが、友人の希望で鉄道旅行、それも寝台列車で移動することにした。
チケットをみせてプラットホームに向かう。QRコードを読みとるゲートが用意されているが、稼働しておらず、駅員がチケットを確認して入構させている。政府はデジタル化を急ぐものの現場はついていっていない。ベトナムあるあるだ。
かつて「鉄ちゃん」だった私は、この年齢になっても先頭車両の写真を撮りたくなる。列車の出発までは時間がある。客車15両編成の先頭までホームを歩く。

赤い車体のディーゼル機関車が見えてくる。正面に回るとV字の白線が印象的だ。「D12E」型との銘板がはめられている。
旧チェコスロバキアの機関車・路面電車メーカー、CKDタトラ社製のディーゼル電気機関車だ。1980年代にベトナムに納入された。年齢にして40歳、中年の働き盛りというところか。同社は2000年に倒産、今は亡きチェコの会社のディーゼル機関車がベトナムでは現役で客車を引いている。
ハノイ〜ラオカイ線はいまだ電化されていない。軌道幅もメーターゲージ、つまり1000mmの狭軌だ。日本のJR在来線の軌道幅は3フィート6インチ、1067mmだから、日本のそれよりさらに67mm狭い。これはこの鉄道が敷設、完成した1903年以来の軌道幅のままなのだ。
先頭の機関車の写真をカメラに納めた後、客車に乗り込む。客車の入口では乗務員が再び乗車券を確認する。
今回は鉄道の旅そのものが目的ではないので、寝台乗車券をベトナム鉄道から直接購入した。4人乗りコンパートメントの下段を友人と2人で占めた。枕、毛布にもカバーが付いている。とても清潔だ。

続いて若い白人女性2人が乗り込んできた。彼女たちとの交流をわずかながら期待したものの、若い2人がアジア人男性高齢者2人連れに興味があるわけもなく、うっすらと微笑んでからすぐに横になって、寝入ってしまったようだ。
いよいよベルが鳴り、出発だ。客車がホームをギクシャクと動き出す。
ほどなくしてトレインストリートの両脇に並ぶカフェの派手な電飾をあとにして、暗闇に沈む紅河にかかったロンビエン橋を徐行して渡る。

ロンビエン橋はかつてドゥーメル橋と呼ばれた。この鉄橋と鉄道とを完成させたインドシナ総督ポール・ドゥーメルの名が冠せられた。
1897年から1902年にかけてインドシナ総督を務めたポール・ドゥーメルは、赤字だったインドシナの植民地の財政を黒字化したことで知られる。人頭税、土地税に加えてアヘン、塩そして酒類の専売とその税収とで達成した。植民地で苛烈な収奪を実行した。
同時に彼はインドシナにおける交通インフラ整備、中でも鉄道の建設に力を注いだ。具体的には、南北を縦断する鉄道と、ハイフォンからハノイ、ラオカイを経て中国の河口から雲南省・昆明までの鉄道路線、滇越(てんえつ)鉄道を企画し、建設を推進した。滇とは漢代に存在した現在の昆明付近を治めた国「滇(てん)国」から来ている。
滇越(てんえつ)鉄道はハイフォンからハノイを経てラオカイまでは1903年に完成、河口から昆明までの鉄道路線は1910年に竣工し、中国の雲南省をフランスの領土とするための布石は整った。
鉄道建設には6万人を動員し、そのうち1.2万人も死亡する難工事であった。死因の多くがマラリアなどの疾病だったといわれる。何よりも中国の雲南省の鉱物資源、スズと雲南でのアヘン栽培を狙っての鉄道建設であった。すべてはインドシナに住む被植民地人のためではなく、フランスの資本の要請に応えるものでしかなかった。

夜行列車なので、街を離れると窓の外も闇夜の中だ。窓外の景色を楽しむこともできない。友人とお互いのベッドに座り、持ち込んだ缶ビールとつまみで乾杯した。同室の女性たちもすでに寝ている。夜更かしして語り合うわけにもいかず、缶ビールを1本ずつ飲み干してから眠りについた。
この滇越(てんえつ)鉄道はその歴史のなかで常に戦争に翻弄され、運行はたびたび中断された。それは日中戦争、ベトナム戦争、そして中越国境紛争の3つの戦争に関わっている。
1940年、日本軍はフランス植民地のインドシナに進駐した。理由は日中戦争が長引いているのは英米による補給路「援蒋ルート」を通じて、蒋介石軍へ兵器・物資が供給されているからだ、と考え、そのルートを遮断することをフランスに要求した。ナチスドイツは電撃的にフランスを占領、親独政権が生まれていたこともあり、日本軍はフランス領インドシナに兵をすすめ、中越国境のレールを取り外し、滇越(てんえつ)鉄道による物資の輸送を停止させた。
二度目はベトナム戦争だ。特に1965年にはじまった米軍による北ベトナムへの空爆、いわゆる北爆では軍事基地をはじめ、物資の輸送路であるハノイ〜ハイフォン間の線路と道路が爆撃された。港から首都への補給路というインフラを断つためであった。度重なる爆撃にも復旧を急ぎ、輸送路を確保したことが知られている。
三度目は1979年にはじまった中越国境紛争によるものだった。南北統一後、鉄道は復旧をみたが、ほどなくして、ベトナムによるカンボジア「侵攻」を懲罰するとの名目で中国が国境を越え、ベトナムに侵攻、滇越(てんえつ)鉄道の復旧は再び遅れることとなった。中越間の国際列車が走行するようになるのは1996年を待たなければならなかった。

あいにくの曇り空の上に、まだ太陽がでるまでには間がある時間、午前6時前のラオカイ駅のホームにSP3号がすべり込む。気の早い乗客はすでに荷物をまとめて通路に並んでいる。終点だから降車をあせる必要もない。
このままラオカイの街から目的の茶畑を目指しても良かったのだが、私も友人も国境の街を一目見ておきたく、ラオカイの街を散策することにした。
ラオカイ市内を流れるホン(紅)河。川をはさんで向こう側はもう中国だ。建物の様子もベトナム側とは少し異なる。中国語・漢字の看板も見える。島国に住む日本人にとっては、この狭い川の向こうがもう異国だということに驚きを覚える。
線路が中国側へと続く鉄橋のたもとにもやってきた。メーターゲージの鉄路は川を越えて、中国へと続く。貨物を運ぶ列車がたまに鉄橋を渡ることがあるのだという。いまは鉄路に遮断機がおりていた。ただその橋が国境だという緊張感はない。

昆明から河口までは時速120kmから160kmで走行する標準軌、1435mm幅の鉄道がすでに開通している。走行しているのは「復興号」、流線型の姿のよい高速鉄道だ。昆明から中越国境の街・河口までの走行時間は3時間10分だ。
今年の2月、ラオカイからハノイを経てハイフォンにいたる高速鉄道の建設がはじまった。2030年には完成予定だ。軌道幅は1435mmの標準軌。設計速度は80kmから160kmと走行区間によって異なる速度が設計されている。将来は昆明から中越国境の街、河口・ラオカイを経て、ハノイ、ハイフォンまで国際鉄道が走る。
すでに昆明からラオスのビエンチャンまでは中国の技術によって高速鉄道が走っている。ビエンチャンからさらにバンコクまで鉄道は延伸される予定だ。それと対抗するかのように、今度は昆明からベトナムへと中越国境越えの鉄道が走る。中国雲南省はこの2つの鉄道によって海路へのアクセスを手にいれることになる。雲南省とベトナム、東南アジアとの経済的な結びつきも今以上により強固となるのは間違いない。
ベトナム南北を走る高速鉄道のプロジェクトに日本の新幹線が導入されるとの計画があったが白紙に戻った。当時は予算規模の割に採算が取れるのかとの危惧から政府の計画に対して国会が否決した。
昨年、南北高速鉄道のプロジェクトが再び政府の計画に浮上した。しかし日本側は一度断られたこともあり、ベトナムの南北高速鉄道プロジェクトへの日本の参加は期待できない。だからといって中国への過度な依存は避けたいのがベトナムだ。

昆明からハノイ〜ハイフォンの高速鉄道、「シン滇越(てんえつ)鉄道」開通の暁にはぜひ乗車したいものだと思いつつ、ラオカイの街を後にして茶畑に向かった。
ベトナム鉄道
ベトナム鉄道のウェブサイト。以下のサイトから列車の発着駅、日時、出発・到着時間、列車番号を確認し乗車券を購入できる。ベトナム語・英語表示のみ。日本語表示なし。
https://dsvn.vn/#/
文・写真/新妻東一(ベトナム在住ライター)
歴史大好きライター兼コーディネータ。東京外国語大学ベトナム語卒。2004年よりベトナム在住。
世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。











