
ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第23回では、菅田将暉さん演じる竹中半兵衛が播磨国三木城の攻防のさなか、病に斃れました。
編集者A(以下A):竹中半兵衛はこれまでいくつもの大河ドラマでキャスティングされていますが、菅田将暉さん演じる本作を見て、三木城攻防の際に秀吉(演・池松壮亮)が本陣をおいた平井山の近くにある竹中半兵衛の墓にどうしてもお参りしたくて、奈良出張のついでに立ち寄ってきました。
I:奈良と兵庫県三木市は、かなり距離が離れているような気がしますが……。
A:はい。思ったよりも距離がありました(笑)。この日は、三木城跡に訪れ、二の丸跡に立つ「三木市立みき歴史資料館」を見学し、往時は城郭内に位置していたという雲龍寺にある「別所長治首塚」をお参りしました。さらに、城跡から車で10分ほどの平井にある「羽柴秀吉本陣跡」を巡ってきました。そして、本陣跡から徒歩5分ほどの位置にある「竹中半兵衛墓所」で頭を垂れました。実は、竹中半兵衛墓所が市内にもう1か所あるとのことで、そちらもお参りしました(お墓参りは別稿)。

I:「ついで」とは思えない行程ですね。
A:『豊臣兄弟!』では、別所長治(演・下川恭平)に加えて、長治の叔父重棟(演・忍成修吾)、賀相(演・田中美央)がキャスティングされ、三木城の攻防が描かれています。ふつうの自治体であれば、「大河ドラマ『豊臣兄弟!』ゆかりの地」ということを大々的にPRするところですが、三木市内には大河ドラマの「た」の字も『豊臣兄弟!』の「と」の字も見当たりませんでした。
I:どういうことでしょう?
A:三木城の攻防から450年以上経過していますが、未だに羽柴秀吉に対する反発心があるのではないかと受け止めました。羽柴兄弟が主人公のドラマでは、別所長治はどうしても羽柴兄弟の「引き立て役」。別所を滅ぼした羽柴兄弟が主人公の大河ドラマに便乗するものかという雰囲気を感じました。司馬遼太郎さんは祖父が三木のご出身ということをエッセイ(「別所家籠城の狂気」=初出は『歴史読本』1960年10月号/『歴史のなかの邂逅2』中公文庫)にこう記しています。
戦国時代の別所氏の城下町であった三木の町は、その没落後政治的性格をうしない、徳川期は金物の町として存在し、いまもその地方産業を維持している以外は、いかにも古典的なしずけさをたたえて、川と丘陵のある野にかすかに息づいている。町全体が、いまなお戦国別所の思い出のなかに生きているような印象を受けた。
I:司馬さんの時代に感じられた「戦国別所の思い出の中に生きているような印象」を、Aさんも感じに行ったということですね。
A:前週も触れましたが、もともと別所一族は早くから織田信長(演・小栗旬)に帰順していました。信長が将軍足利義昭(演・尾上右近)を奉じて京都入りした際に、諸国の大名に上洛するように命じましたが、別所長治はそれに応じて上洛して信長との知己を得ています。以来、幾度も信長とは面会しています。にもかかわらず、なぜ急に毛利に寝返ったのか? 名門別所はなぜ敗れたのか?
I:そういわれると、本当に謎ですね。
A:江戸時代初期に別所家の家臣が執筆した『別所長治記』には、播磨の指揮官として織田家から派遣されたのが羽柴秀吉であったことで、プライドを傷つけられたといったことが記されているようです。「別所氏の家臣に無遠慮に振る舞い、下人のように扱った」「播磨を治める大将は信長嫡男信忠か次男信雄かと思っていたら秀吉だった」としたうえで、「氏もなき人を大将にしては諸人軽んずる物なり」「なんぞ、昨今信長の取立、漸く侍のまねをする秀吉を大将にして、長治彼が先にて軍せば、天下の物笑たるべし」と、秀吉の出自が低いことをあげつらい、いくらなんでもここまでいうか、ということが記されています。
I:別所氏は守護を務めた赤松氏の庶流で守護代を務めている名門意識が強かったんですね。
A:『別所長治記』の記述が気になっていたのですが、「みき歴史資料館」の金松誠学芸員の著書『秀吉の播磨攻めと城郭』(戎光祥出版)を読んで視界が開けました。秀吉は別所重棟の娘と黒田官兵衛の嫡男松寿丸の縁談を薦めたそうです。同書には「家格としては、別所家は東播磨守護代、黒田家は御着城主小寺氏の家臣にすぎないことから、長治が不満を持った可能性が指摘されている」と記されているのです。
I:なによりも家格を気にする室町時代ですから、重要な問題ですよね。
A:加えて、毛利や足利義昭から勧誘されたら……。名門別所家もぎりぎりの選択だったのでしょう。
「城主 木下與一郎」という付け城
A:「みき歴史資料館」には三木城内から出土したという備前焼の大甕が展示されていました。食糧の保存に用いられたそうです。三木合戦というと「三木の干し殺し」という兵糧戦が行われたことが有名ですが、食糧保存のための大甕が空になったときの城兵の気持ちを考えると切ないですね。さらに、複製とはいえ「三木合戦絵図」も見ごたえがありました。14分の三木合戦解説ビデオも充実の内容です。感慨深かったのは、三木合戦当時の付け城群のジオラマ。多くの付け城の中のひとつ君ヶ峰城の城主として「木下輿一郎」の名が記されていたのです。『豊臣兄弟!』劇中では、与一郎(演・高木波瑠)は小一郎正室慶(演・吉岡里帆)の連れ子という設定でしたが、実際には小一郎の実子といわれています。その与一郎が、三木合戦の攻防では一城の主として名前が刻まれているのです。
I:『秀吉の播磨攻めと城郭』、私も読んでみましたが、木下輿一郎が城主を務めていたという情報は『播磨鑑』『別所記』に記されているそうです。
A:ちなみに同書は、秀吉による播磨での攻防をわかりやすく説明してくれる良書。三木城周辺の付け城群についても細かく解説されて、ややマニアックではあるのですが、地域に根差した学芸員ならではの情報が多く、おすすめです。さて、三木城本丸跡には、2002年に地元のライオンズクラブが寄贈した「馬上の別所長治像」が立っています。本丸跡から三木市街を望めば、眼下に美嚢(みのう)川が流れ、天然の要害であったことがわかります。つまり攻め難い。
そのため、「三木の干し殺し」という兵糧攻めを採用したのだと思います。歌碑に刻まれた「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかはる我身とおもへば」という長治の辞世の句も胸に迫ってきます。「三木城が落城しようという今、もう誰のことも恨む気持ちにはならない。自分が切腹することで、多くの城兵の命が助かるのだから」ということでしょうか。かつて「城内」にあったと説明される「雲龍寺」の脇には、別所長治と正室の首塚が寄り添うように厳かに佇んでいます。無念の内に自害した長治ですが、自身の城の中に埋葬されたのであれば、せめてもの供養になっているのかなと感じました。

I:けっこう見ごたえありそうですね。それで、秀吉本陣跡にも行ったんですよね?
A:秀吉の本陣は、三木城から4kmほど離れた平井山に設けられました。入山口から主郭までは10分ほど。三木城方面を望める眺望で往時を偲ぶことができます。主郭の先にも城の最高地点(標高145m)まで「太閤道」と称される道が続くのですが、今回は主郭のみで断念しました。入山口には「五七の桐紋」の幟が立ちますが、ここでも『豊臣兄弟!』の「と」の字もありません。それでも『豊臣兄弟!』で秀吉らが集った場所だという雰囲気は濃厚に感じることができました。
I:なるほど。なんだか私も行ってみたくなりました。
A:「みき歴史資料館」では、企画展「秀吉・秀長の播磨攻めと城郭」が7月25日から9月27日まで開かれます。会期中、ギャラリートークも複数回開催されるようですよ。「町全体が、いまなお戦国別所の思い出のなかに生きているような印象を受けた」という司馬遼太郎さんのフレーズを換骨奪胎すると、「町全体が、いまなお戦国別所の気風を濃厚に残して生きているような印象を受けた」ということになります。

●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











