人生の最期に向け財産整理やモノの処分をすすめる“終活”のブームは続いている。俳優・泉ピン子さん(77歳)は、「終活をやってみたんだけど、死に急いでいるみたいで嫌じゃない」と語る。そんなピン子さんの新刊は『終活やーめた。 元祖バッシングの女王の「ピンチを福に転じる」思考法』(講談社)だ。1回目(https://serai.jp/hobby/1230292)では、52歳のときに降りかかった人生最大のピンチである億単位の借金についてお話しいただいた。ここでは、芸人から俳優として大成するまで、詳述する。(全3回/2回目)

芝居の師匠は杉村春子さんと森光子さん
泉ピン子さんは、1965年から1975年の約10年間、ギター漫談師として全国のキャバレーや劇場などを回っていた。
「北海道から占領下の沖縄まで、片手にギター、片手にボストンバッグを下げて行くのよ。交通費は片道だけ。最初の仕事でギャラがもらえなければ、泊まることも移動もできないんだから、そりゃ必死になるし、打たれ強くもなる。あのとき、多くの人に助けていただいたから、私は若い子にすぐにおごっちゃうの。
1975年に出演した、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)で知られるようになってから、ドラマの出演依頼をいただくようになったんです」
そこで、求められていたのは、ドラマの中にいる、ウィークエンダーの芸人・泉ピン子だった。
「演技も期待されていなかったし、よそ者扱いもされましたよ。当然、うまく演じることはできません。そんな私に親切にしてくれたのが、森光子さん(1920-2012年)。セリフの言い方、プロとしての気構えなど、多くを学びました」
ふたりの縁は深く、ピン子さんが最初に出演した連ドラは、森さん主演の『花吹雪はしご一家』(TBS 1975年)だった。以降、多くの作品で共演する。ピン子さんがスター街道を走っていた30代前半のとき、『小夜ちゃん(ピン子さんの本名)、一緒に舞台をやろうよ』と森さんからオファーを受けた。
「このとき、私は眠る間もないほど多忙で、“私は人気者だ”という傲慢とうぬぼれがあったんです。それもあって、セリフを覚えず稽古場に行っちゃったんですよ。
それに気づいた森さんから『セリフは、あなたのためにあるのよ。やると言ったんだから、覚えていらっしゃい』とピシャリ。あの優しい森さんに、そこまで言わせてしまったときは、背中に冷水を浴びたような気持ちになりましたよ。その日から、どんなに忙しくとも、現場にはセリフを覚えてから行く。これは徹底しました。
大変だったのは『渡る世間は鬼ばかり』(TBS 1990-2019年/以下・渡鬼)。何ページもある長いセリフがあるじゃない。発声するだけじゃ覚えられないから、書いていましたよ。受験勉強みたいでしょ。
その紙を“幸楽”(劇中の中華料理店)のエプロンのポケットにお守りがわりに入れていたんです」

もう一人の師匠は、日本の演劇史に残る名優・杉村春子さん(1906-1997年)だ。
「杉村春子先生には、芝居とは何かを叩き込んでいただきました。1970年の後半ごろからご一緒することが増え、その度に、“芝居とは音だ”と常におっしゃる。それが、現場だけならいいけれど、待ち時間や楽屋、プライベートのときまで、“あなた、音が違う!”と一喝されるんですよ。
先生の言う“音”とは、相手との距離、立場、関係を音……つまり声で表現しろということ。同じ“おかあさん”という呼びかけも、朝の忙しい時間帯と夜では全然違うでしょ。それを突き詰めてから発声しろと。
これが難しくて、演出家に出番をカットされそうになったこともありましたが、必死に食らいついて、ものにしていきました。あのピンチを乗り越えたから、たくさんのチャンスがやってきた」
【生活を表現できる俳優として、多くの演出家から声がかかるように……次のページに続きます】
