陽成院(ようぜいいん)は、清和天皇の第一皇子として生まれ、名を貞明(さだあきら)といいました。驚くべきことに、わずか9歳という若さで第57代天皇として即位します。しかし、その治世は長くは続かず、在位8年、17歳の時に突然譲位することに。
この譲位の背景には、諸説あります。最も有名なのは、陽成院が粗暴な振る舞いが多く、宮中で人を殺めたとされる説です。これが事実であれば、まさに「暴君」ですが、一方で、これは藤原氏が政治の実権を握るための策略であったという見方も根強くあります。若き天皇の行動が誇張され、譲位の口実にされたのかもしれません。
退位後は上皇として60年以上を過ごし、精神的な病により異様な行動を続け、恐れられました。馬好きで30頭飼い、家来や女子どもを鞭で打ったり家を壊したりしたという逸話も伝わります。
退位後の宮中は妖怪や怪異の話が語られ、『宇治拾遺物語』には陽成院が作り出した怪異譚も記録されています。反面、『今昔物語』では孫の晴れ姿を見たくて賢く札を立てて見物した80歳の翁を許した心優しいエピソードもあります。陽成院は、82歳で亡くなるまで波乱の生涯を送りました。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
目次
陽成院の百人一首「筑波嶺の~」の全文と現代語訳
陽成院が詠んだ有名な和歌は?
陽成院、ゆかりの地
最後に
陽成院の百人一首「つくばねの~」の全文と現代語訳
つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵(ふち)となりぬる
【現代語訳】
筑波山の峰から激しく流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が次第に水量を増やして深い淵となるように、私の恋心も積もり積もって淵のように深くなってしまった。
『小倉百人一首』13番、『後撰集』776番に収められています。この歌の舞台となっているのは、現在の茨城県にある筑波山です。筑波山は、男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)の二つの峰を持ち、『万葉集』以来よく歌に詠まれています。その峰の間から流れ出る川が、男女川です。
歌の前半(上の句)では、山の峰から激しく流れ落ちる川の情景が描かれています。その勢いのある流れが、後半(下の句)では、積もり積もった恋心に重ね合わされます。「こひぞつもりて」の「ぞ」は強意を表し、抑えきれないほどの強い恋心を強調しています。そして、初めはささやかな流れだった恋心が、時とともに深く、底知れない「淵」のようになってしまった、と結びます。
最初はささやかな思いだったものが、次第に激しく、そして深く、自分でもどうしようもないほどの感情になっていく。そんな恋心の高まりと深まりを、筑波嶺から流れ落ちる男女川が淵をなすというダイナミックな自然現象に託して詠んだ、非常に情熱的で巧みな一首です。
『後撰和歌集』の詞書には「釣殿(つりどの)の皇女につかはしける」とあり、「釣殿の皇女」とは光孝天皇の皇女で、後に陽成天皇の妃となった綏子(すいし)内親王のことを指します。ストレートで激しい愛情表現に、受け取った相手は心を揺さぶられたことでしょう。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
陽成院が詠んだ有名な和歌は?
陽成院の歌は残念ながらこの一首しか残されていません。歌人としての実績はないのですが、「陽成院歌合」なども行われており、歌への関心は少なくなかったと思われます。

陽成院、ゆかりの地
陽成院ゆかりの地を紹介します。
陽成天皇 神樂岡東陵(ようぜいてんのう かぐらがおかのひがしのみささぎ)
京都市左京区に陽成天皇陵があります。静かなたたずまいの中で、波乱の生涯を送った帝の魂に想いを馳せることができます。
最後に
謎多き陽成院の生涯と、ほとばしるような恋心を詠んだ歌。その対比を知ることで、百人一首がさらに味わい深く感じられるのではないでしょうか。歌に込められた情感や描写は、現代の私たちの感覚ともつながるものです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp
