はじめに-竹田城攻略とはどのような事件だったのか

「天空の城」として知られる、竹田城(たけだじょう)。兵庫県朝来市に残る壮大な石垣群は、多くの観光客を魅了しています。しかし戦国時代、この城は織田信長と毛利氏が争った西国戦線の重要拠点でした。

天正5年(1577)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は弟・羽柴秀長らを率いて但馬へ侵攻し、竹田城を攻略します。この戦いは、後の中国攻めや豊臣政権の基盤形成にもつながる重要な軍事行動でした。

この記事では、「竹田城攻略」について、背景や関わった人物、戦いの経過をわかりやすく解説します。

現在の竹田城跡

竹田城攻略はなぜ起こったのか

戦国時代後期、但馬国(現在の兵庫県北部)は山名氏や太田垣氏ら国衆が支配する地域でした。中でも竹田城は、生野銀山を押さえる軍事・経済の要衝として重要視されていました。

永禄12年(1569)、織田信長は生野銀山を接収し、但馬への影響力を強めます。しかし天正元年(1573)頃になると、中国地方の大大名・毛利氏が勢力を伸ばし、但馬の国衆たちも毛利方へ接近していきました。竹田城主・太田垣輝延(おおたがき・てるのぶ)もその一人でした。

信長は西国攻略を進めるため、羽柴秀吉に中国攻めを命じます。そして天正5年(1577)、秀吉軍は弟・秀長を先鋒として但馬へ侵攻。竹田城攻略が始まったのです。

関わった人物

竹田城攻略に関わった主な人物についてご紹介します。

【織田・羽柴方】

羽柴秀吉(はしばひでよし)

豊臣秀吉
羽柴秀吉

織田信長の家臣として中国攻めを担当していた武将です。播磨平定を進める中で、但馬攻略にも乗り出しました。竹田城攻略では全体の指揮を執り、但馬制圧を通じて毛利方の勢力を切り崩そうとします。

羽柴秀長(はしばひでなが)

豊臣秀長
羽柴秀長

秀吉の弟で、のちに豊臣政権を支える名補佐役として知られる人物です。『信長公記』などによれば、竹田城攻略では秀長軍が真弓峠を越えて但馬へ進軍し、岩洲(いわす)城に続いて竹田城を攻めています。

但馬平定後は竹田城代として城に駐留し、普請や道整備、生野銀山経営にも関わりました。

織田信長(おだのぶなが)

織田信長
織田信長

中国方面軍を秀吉に任せ、西国の毛利氏との対決を進めていました。竹田城攻略は、信長の中国戦略の一環でもありました。

【毛利方・但馬勢】

太田垣輝延

竹田城主。山名氏配下の有力国衆・太田垣氏の当主です。当初は織田方とも関係を持ちましたが、やがて毛利方へ接近。竹田城を拠点に抵抗を続けました。

山名祐豊(やまな・すけとよ)

但馬守護の山名氏当主です。戦国後期には勢力が衰えていましたが、毛利氏と連携しながら但馬支配の維持を図りました。

吉川元春(きっかわ・もとはる)

毛利氏の重臣で、毛利元就の次男です。但馬方面でも積極的に活動し、太田垣氏ら国衆との連携を進めました。

この事件の内容と結果

天正5年(1577)11月、羽柴秀長軍は真弓峠を越えて但馬へ侵攻します。まず岩洲(いわす)城を落とし、その後竹田城へ進軍しました。

竹田城は険しい山上に築かれた堅城でしたが、秀長軍は鉄砲隊を投入して攻撃を続行。『武功夜話』には、「諸手より鉄砲三百挺先を相揃え打入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり」と記されています。

戦いは3日間続いた末、太田垣輝延は降伏し、竹田城は織田方の手に落ちました。このとき秀長は、竹田城代として駐留し、竹田城の普請や銀山経営、道路の普請(養父から真弓峠間)などを行っています。

ただし、但馬情勢はなお不安定でした。天正7年(1579)頃には、毛利方との関係の中で再び太田垣氏が竹田城へ復帰した形跡もみえます。

そのため秀吉方は、三木城攻めが終わった後の天正8年(1580)4月、再度、秀長が但馬へ出陣。大軍を前にさしたる抵抗もできずに太田垣輝延は降伏し、但馬平定はほぼ完了しました。

「竹田城攻略」その後

竹田城は、但馬支配の重要拠点として整備されていきます。

天正10年(1582)には桑山重晴が入城し、さらに天正13年(1585)には赤松広秀が城主となりました。この頃、現在も残る壮大な石垣群が本格的に整備されたと考えられています。

竹田城は、豊臣政権が日本海側を防衛する重要拠点でもありました。

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、城主・赤松広秀は徳川家康の不興を買って切腹。竹田城も廃城となりました。

現在残る石垣は、その後一度も大規模な改変を受けなかったため、中世末から織豊期の山城遺構を今に伝える貴重な存在となっています。

竹田城跡
竹田城跡と雲海

まとめ

竹田城攻略は単なる一地方の城攻めではなく、生野(いくの)銀山を押さえ、中国地方へ進出するための重要戦略でした。

織田信長・羽柴兄弟にとって西国制圧の大きな一歩だったといえるでしょう。

とりわけ秀長は、この戦いで実戦指揮官として活躍し、但馬平定後も城代として地域支配を担いました。後年、豊臣政権を支える名補佐役となる秀長の力量は、こうした地方戦線でも培われていったのでしょう。

「天空の城」として知られる竹田城。その壮大な石垣の背後には、戦国乱世の激しい攻防と、豊臣兄弟の歩みが刻まれているのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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