関ヶ原合戦図や源平合戦図には武将たちの家紋が描かれた旗や陣幕がはためき、その家紋はいまでも冠婚葬祭で着用する羽織や着物などに描かれています。家紋がわからない人も、名字の由来からその家のルーツや歴史を知ることができます。
『ルーツがわかる家紋と名字』(宝島社)では、日本の氏姓制度の導入から現代に至るまでの変遷など、家紋と名字のいわれと歴史をひもといています。いつか自分史を綴りたいと考えている人におすすめの一冊です。今回は、「現代に伝わる名家の家紋」の一部をご紹介します。
監修/高澤等、森岡浩
「財閥」の名家~明治維新後の日本経済を支えた新政府の御用商人たち
身分制度が厳しかった江戸時代、名字を名乗ることができるのは公家や武士といった一部の特権階級のみで、農民や商人は名字を持っていたものの公称を禁じられていた。唯一の例外は、幕府や藩に貢献した褒美として名字の名乗りを許されることである。とはいえ、大多数の庶民は200年以上名乗れなかったせいで先祖から受け継いだはずの名字を忘れてしまい、明治時代に政府から名字を名乗るよう命じられた際に困ったという。
一方、天皇家、将軍家と同じ意匠でなければ、家紋の使用は庶民でも黙認されていた。このため、江戸時代はオリジナリティあふれる新しい家紋が次々と誕生。特に商家では、自分の店と他の店を区別するために、名字代わりに店のシンボルマークとして暖簾などに家紋を用いたのである。特に有名なのが、掛け売り(ツケ払い)という当時の常識を打ち破り、現金払いと定価販売を行うことで江戸屈指の豪商となり、幕政にも影響を与えるようになった呉服店の三井越後屋だろう。創業家の三井家はもともと近江源氏の佐々木氏と同じ「四つ目結」を家紋にしており、江戸に店を開いた当初も使っていたが、浮世絵などでもよく描かれている駿河町の店舗への移転前後に「丸に井桁三」に変更している。家紋としてはポピュラーな意匠の「井桁(いげた)」に漢数字の「三」を組み合わせることで、三井の名をシンプルかつ力強く表現し、記憶に残りやすい家紋となっている(丸は「天」、井桁は「地」、三は「人」という「天地人」の三才を表しているといわれる)。
明治時代に入ると、三井越後屋はその莫大な財力によって政商の地位を確立し、さまざまな企業を傘下に収める大財閥(現在の三井グループの前身)へと成長。「丸に井桁三」は現在も三井グループに社章として受け継がれている。なお、三井越後屋と同じく江戸時代の豪商から明治時代に財閥を形成した住友は、シンプルな「井桁」を社章にしている。これは、住友財閥の前身である銅銀商の屋号が「泉屋」で、その所在地が和泉国堺だったことから、原点を忘れないように泉がわく井戸の意匠である「井桁」を家紋に選んだとされる。
三井と住友は江戸時代から続く豪商だが、この二財閥とともに日本四大財閥に挙げられる三菱と安田は、創業者が一代でその礎を築いた企業だ。三菱の創業者・岩崎弥太郎は、土佐藩で「地下浪人」と呼ばれる非常に地位の低い武士身分だったが、尊王攘夷と佐幕で揺れ動く土佐藩で商人としての才覚を発揮して成り上がった人物である。三菱財閥の社章として知名度が高い「スリーダイヤ」は、実は岩崎家の代々の家紋ではない。明治維新後に土佐藩が設立し、弥太郎に監督を任せていた九十九商会の船旗号として、岩崎家の先祖である甲斐国の小笠原家の家紋「三階菱」と、土佐藩主・山内家の家紋「三つ葉柏」を掛け合わせ、新しく創作された意匠だった。1871(明治4)年に廃藩置県が実施されると、弥太郎は土佐藩が所有する船を買い取り、個人の商会を立ち上げた。その際にスリーダイヤを社章として引き継ぎ、それにちなんで社名も三菱と命名したといわれている。
四大財閥の最後のひとつである安田の創業者は、富山藩の下級武士出身の安田善次郎である。他の三財閥との大きな違いは、善次郎の方針で金融業を主軸とし、重工業には積極的でなかった点だろう。その代わり、融資によって他社の事業を育成することに熱心で、同郷の浅野総一郎(浅野財閥の創業者)を応援したことは有名である。浅野が敷設した鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)の安善駅の駅名は、浅野が善次郎に敬意と感謝を示すために命名されたのである。なお、安田家代々の家紋は「丸に木瓜」だったが、富山藩を治めた前田家(加賀藩の支藩)への憧れから、善次郎が前田家の家紋「梅鉢」をアレンジした家紋を用いるようになったという。ただし、安田財閥の中核をなした安田銀行の行章には、「安田分銅」が用いられている。天秤で重さを量るために用いる道具・分銅は、正確さを信条とする商人に好まれた意匠であるが、「安田分銅」は分銅部分の中央に漢数字の「三」が配置されている。これは、安田家が平安時代の政治家として有名な三善清行(みよしきよゆき)の子孫であることを表しているという。三善清行は律令制度の崩壊によって困窮する民衆を救うために、醍醐天皇に政治改革を促す意見書「意見封事十二箇条」を提出した好漢である。銀行の行章にそうした先祖の存在をアピールしているところに、善次郎の経営理念をうかがうことができる。
もっとも、社章が創業者の家紋とは無関係な老舗企業も多い。例えば、1888(明治21)年に創業された日本石油会社(現在のENEOSの前身)の場合、創立記念式典に迷い込んだ蝙蝠(こうもり)を見た社長が瑞兆だと判断し、まだ決まっていなかった社章を蝙蝠の意匠にしている。中国では「蝠」の字の音が「福」と同じため、蝙蝠は幸福の使者として珍重されていたからだ。
「芸能」の名家~江戸っ子の憧れだった歌舞伎役者の紋所
庶民層まで家紋の使用が普及した江戸時代、身分を問わずに人気を集めた娯楽が歌舞伎である。現在では伝統芸能として高尚なイメージが強い歌舞伎だが、元禄時代に起きた赤穂浪士の吉良邸討ち入りが『忠臣蔵』という演目になったように、当時は実際に起きた事件を題材にするような大衆演劇だった。その猥雑さが生み出すエネルギーは見る者を熱狂させ、その舞台に立つ人気の歌舞伎役者はまさしくスーパースターだった。当然、歌舞伎役者も家紋を持っているが、基本的には名跡(みょうせき/一門で代々受け継ぐ役者の名前)が背負う紋様として扱われた。
粋と張りが身上の江戸っ子に「さすがは◯◯◯」と思わせるためなのか、役者の家紋は一般人の家紋に比べると、華やかだったり縁起をかつぐ意味を持っていたりする意匠が多かった。例えば、歌舞伎界屈指の大名跡・市川團十郎の家紋である「三つ入れ子升(三升)」は、初代が贔屓筋から贈られた三つの升を自分の家紋のデザインに取り入れたことに始まる。一見地味に見える家紋だが、「(観客が舞台を)見ます」という駄洒落だけでなく、三升には二升五合(舛々半升)=「ますます繁盛」をさらに上回って芝居小屋が大入りになる、という願掛けも込められているのである。
團十郎のように一門を代表する名跡の家紋は、一門を象徴する紋所でもあるため、商家における屋号と同じく、基本的には本人以外はみだりに使用できない決まりとなっている。このため一門の人間が使用する場合は、市川左團次が「三升」の中に「左」の文字を入れたように、多少のアレンジをして新しい家紋を作った(左團次の場合、普段は替紋の「松皮菱に鬼蔦」を使用している)。
また、当代(七代目)が人間国宝に認定されている尾上菊五郎の家紋は、「重ね扇に抱き柏」という一風変わった意匠である。これも初代が、贔屓筋(信仰していた神社という説もある)から扇に載せた柏餅を頂戴し、それを扇で受け取ったというエピソードにちなむという。
2012(平成24)年に十八代目が急逝した名跡・中村勘三郎の家紋は、江戸時代の官許三座(幕府が歌舞伎興行を許した芝居小屋)のひとつである中村座の櫓に掲げられた「角切り銀杏」である。実は、勘三郎の家紋はもともと「丸の中に舞鶴」だった。しかし、五代将軍・徳川綱吉が愛娘・鶴姫の名前である鶴の文字やデザインの使用を禁じたため、翼を広げる鶴に形が似ており、さらに末広がりの扇に似て縁起が良さそうな銀杏の意匠が代わりに選ばれたのだという。なお、役者の家紋は自身の着物を飾るだけでなく、現代風にいうとPR用のノベルティグッズにも使われた。具体的には、家紋を染め抜いた手拭いを贔屓筋に配ったり、襲名披露の際には舞台からばらまいたりしたのである。また、熱心なファンの中には、自分の推しの役者の家紋を自分の持ち物に入れることもあったという。
もちろん、歌舞伎だけでなく伝統芸能を受け継いでいる家にも、代々受け継いできた家紋がある。その中で、歌舞伎と同じくらい庶民に愛され、名跡を守ってきた芸能が落語だろう。落語家の家紋は、一門が同じ紋様を使用する場合もあれば、芸名にちなんだ家紋を使ったり、実家の家紋をそのまま使ったりする場合もある。例えば、2022(令和4)年に亡くなった六代目三遊亭円楽一門は、橘の花が三つ組み合わさった「三つ組橘」を、2011(平成23)年に亡くなった立川談志一門は「丸に左三蓋松(ひだりさんがいまつ)」を使用。さらに、江戸時代から続く大名跡・林家正蔵を擁する林家三平一門の場合は「花菱」を使用している。その一方で、昔昔亭桃太郎のように、その名前にちなんで「桃紋」を使用している落語家もいれば、森乃福郎一門の「ふくろう紋」や、春風亭昇太の「くらげ紋」のように、コミカルな紋を使う落語家も存在する。他の芸能分野ではこうした新しい家紋は「おふざけが過ぎる」と却下されそうだが、ウィットを愛する話芸であるゆえか、落語界では通用している。
ちなみに、芸能とはかけ離れるが、歌舞伎役者と同じくらい錦絵の題材となり、流行の発信源となった遊女たちの紋も、江戸時代の家紋を語るうえで触れないわけにはいかない。遊女は基本的に、遊郭に売られてきた時点で実家との縁が切れ、家紋を持たない。それゆえに自由に好みの紋を選ぶことができ、己を飾るかんざしや着物の柄に用いたという。当然のことながら、優美な花鳥の意匠が好まれた。さらに、遊女たちは自分の紋となじみ客の家紋を合わせた「比翼紋」を作って身につけ、客を喜ばせたという(比翼紋は遊女だけの文化ではなく、一般人が自分の家紋と推しの歌舞伎役者の紋を組み合わせた比翼紋を作り、身の回りの物に入れる場合もあった)。その際に遊女が好んで使ったのが、華やかな花の意匠ではなく、意外にも地味な「蔦」だった。蔦はつるが伸びて物に絡まる性質を持つため、「客を逃したくない」「誰かにすがりたい」という、悲しくもしたたかな無意識の願望がその選択の背景にあったと考えられる。
* * *
ルーツがわかる家紋と名字
監修/高澤等(家紋)、森岡浩(名字)
宝島社 880円
高澤等(たかさわ・ひとし)
1959年、埼玉県生まれ。日本家紋研究会会長、家系研究協議会理事。
学生時代より実父である日本家紋研究会前会長・千鹿野茂とともに家紋収集を始め、『都道府県別 姓氏家紋大事典』(柏書房)などの編纂に携わる。著書に『家紋大事典』『苗字から引く家紋の事典』(ともに東京堂出版)、『戦国武将 敗者の子孫たち』(洋泉社)など。
森岡浩(もりおか・ひろし)
1961年、高知県生まれ。姓氏研究家。
早稲田大学政治経済学部卒業。学生時代から独学で姓氏研究を行い、文献だけにとらわれない実証的な研究を続ける。特に現在の名字分布をルーツ解明の一手がかりとする。著書に『なんでもわかる日本人の名字』(朝日新聞出版)、『名字でわかる日本人の履歴書』(講談社)など。