当初の原則が崩れていく女院号
A:平家の女性ではほかにも、清盛正妻の時子の妹滋子が後白河天皇の女御となり、高倉天皇の生母として「建春門院」の女院号を与えられました。そして、歴史的に重要なのが「八条院暲子」。鳥羽天皇の皇女で、近衛天皇は母を同じくする弟。崇徳、後白河の両天皇の異母妹になるという方です。八条院は生涯未婚でしたから、このときすでに「国母に女院号」「立后された后」という当初の原則が崩れていたことがわかります。
I:八条院というと、歴史の本などによく登場しますね。
A:はい。人物というよりは、俗に「八条院領」という言葉で知られています。八条院暲子は膨大な荘園領主だったんですね。中公新書『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』(伊藤俊一著)によると、「八条院領は1176年(安元2)時点で約100箇所、1221(承久3)年には221箇所にのぼった」ということで、日本最大の荘園領主だったといいます。歴史的に面白いのは、八条院暲子の猶子が以仁王。八条院の蔵人を務めたのが源行家ということ。
I:打倒平家の以仁王令旨を各地の源氏に届けた源行家! 八条院という女院が、源氏の挙兵に間接的ではありますが関わっていたということですね。
A:はい。八条院がなぜ女院号を与えられたかというと、父である鳥羽上皇の寵愛を受けたからだといわれます。そうしたこともあって有力な荘園領主になったということですが、この荘園群は流れ流れて後醍醐天皇に伝承されることになります。
I:『光る君へ』関連では、道長(演・柄本佑)と倫子(演・黒木華)の娘である彰子(演・小井圡菫玲)がやがて上東門院(じょうとうもんいん)の女院号を得ますね。
A:そして、歴史というのは奇々怪々で、東三条院が初めて女院号を得てから400年以上経った足利義満の時代に、義満正室の日野康子に「北山院」の女院号が与えられます。原則を無視したものでしたが、後小松天皇の准母の扱いということで強引に与えられたようです。
I:長い期間を経ると、当初の原則はなかったも同然ということになるのですね。歴史の戒めというふうに受け取りたいと思います。
A:初めて女院号を与えられたのが東三条院詮子ということなのですが、女院号を与えられた際も公卿らからは反対されていたようです。『光る君へ』で時代考証を担当されている倉本一宏先生の著書『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし』(ミネルヴァ日本評伝選)には、詮子に女院号が与えられたことについて、「公卿層がこれを快く思っていなかったことは、議定の場で出された意見に、〈確かな例を調べ得ることができなかった〉とか、〈たとえその例が有ったとはいっても、宜しい例ではないのではないか。もしかしたら避けるべきである〉とあることをみれば明らかである」とあります。
I:これも強引だったのですね。
A:とはいいながら、今後の権力の大移動で詮子は、決定的な役割を果たすことになります。そのくだりを吉田羊さんがどう演じるのか。
I:めちゃくちゃ楽しみですね。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。「藤原一族の陰謀史」などが収録された『ビジュアル版 逆説の日本史2 古代編 下』などを編集。古代史大河ドラマを渇望する立場から『光る君へ』に伴走する。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2024年2月号の紫式部特集の取材・執筆も担当。お菓子の歴史にも詳しい。『光る君へ』の題字を手掛けている根本知さんの仮名文字教室に通っている。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり