読書家で鷹狩好き、自ら薬を調合した天下人の知られざる素顔
読書を好み、書の普及に尽力した家康は、鷹狩を愛し、調薬を手がけるなど、多様な顔を持つ武人だった。江戸時代260余年の泰平の世の礎を築いた天下人の人物像を振り返る。
読書家の家康が始めた出版事業
徳川家康は、戦国時代の武将の中で一、二を争うほどの読書家だった。それが高じて、出版事業にまで乗り出している。家康がつくった銅活字や出版物が、凸版印刷の印刷博物館(※印刷博物館 電話:03・5840・2300 東京都文京区水道1-3-3)に展示されている。学芸員で印刷文化に詳しい緒方宏大さん(54歳)を訪ねた。
「家康の印刷・出版事業はふたつに分けることができます。ひとつは慶長4年(1599)から同11年(1606)の事業。京都伏見の圓光寺 (※現在は京都市左京区一条寺に移転。伏見版の木活字(重文)を所蔵する。)で行なわれたので〈伏見版〉といいます。伏見版で使用した活字は、木活字です。サクラ材に彫った活字で、当時はよく使われていました」
このときに印刷されたのが、儒学書の『孔子家語』や中国唐の太宗の言行録『貞観政要』、鎌倉幕府の歴史書で家康の愛読書だった『吾妻鏡(東鑑)』などだ。
「もうひとつはおもに駿府 (現・静岡市)に退隠したあとの慶長20年(1615)から亡くなる元和2年(1616)までの事業。駿河の国(静岡県)の駿府で行なったので〈駿河版〉といいますが、駿河版で使用したのは銅活字です」
銅活字は、豊臣秀吉の朝鮮出兵により日本にもたらされた。秀吉はそれを後陽成天皇に献上。家康は天皇からその活字を一式借用し、同じ銅活字をつくった。主な出版物は、重要な経典を収録した『大蔵一覧集』や治世の指南書『群書治要』である。
古典籍の書写事業
家康はなぜ印刷・出版にこだわったのか。緒方さんは「家康が今川義元の人質として駿府に暮らしたことが発端と考えられます」と語る。
「駿府で家康の教育係を務めたのが禅僧の太原雪斎です。実はそのころ雪斎は、版木による木版印刷を行なっていました。家康は雪斎から印刷のノウハウを教えられ、印刷・出版の重要さを肌で感じたのではないでしょうか」
駿府城の巽櫓に、人質時代の家康(竹千代)が手習いをしたという部屋が復元されている。家康はその部屋で、中国の古典はもとより、日本の歴史・文学まで学んだ。家康の読書好きはここで育まれ、印刷の事業へと発展したのだ。
「家康が〈伏見版〉を印刷し始めたのは、関ヶ原合戦の前年です。〈駿河版〉は、大坂夏の陣の直前。つまり家康は一方で戦争を進めながら、もう一方で印刷・出版を実行していた。来るべき次の代は、武による支配から文による国づくりを目指し、平和な世を築くという方針を立てていた。常に時代の先を見る目をもっていたのが家康の偉大さです」と緒方さんは語る。
家康は最晩年に古典籍(古書)の書写事業も進めた。皇室や公家たちから書物を提出させ、それらをすべて筆写する。書写したのは京都五山(※幕府が位を定めた京都の臨済宗の5つの寺。)の禅僧たちだ。各寺から10人、計50人が選抜され、南禅寺金地院で一気に行なわれた。
立ち寄り処
駿府城公園
天正13年(1585)に家康が築城開始。天守閣は5層7階だった。第二次世界大戦後に静岡市が本丸、二の丸の区画を駿府城公園として整備した。
静岡市葵区駿府城公園1-1
電話:054・251・0016
開園時間:9時〜16時30分(入館は16時まで)
休園日:月曜(祝休日の場合は開館)、年末年始
入園料:360円(全施設共通券)
交通:JR静岡駅から徒歩約15分
取材・文/田中昭三 撮影/宮地 工
※この記事は『サライ』2023年2月号より転載しました。