本連載の第109回(https://serai.jp/hobby/1028415)では、ジャズマンを題材にした映画が近年多数制作されていると紹介しましたが、その中で意外なのはチェット・ベイカーです。そこでは7本の映画を挙げましたが、4本はドキュメンタリーで3本が「劇映画」。その劇映画のうち『ブルーに生まれついて』と『マイ・フーリッシュ・ハート』の2本がチェット・ベイカーを題材にしたものでした。


『ブルーに生まれついて』
監督・脚本:ロバート・バドロー/アメリカ、カナダ、イギリス合作映画/2015年制作・2016年日本公開/チェット・ベイカー役:イーサン・ホーク

『マイ・フーリッシュ・ハート』
監督・脚本:ロルフ・ヴァン・アイク/オランダ映画/2018年制作・2019年日本公開/チェット・ベイカー役:スティーヴ・ウォール


この2本はいずれも素晴らしい演奏シーンがふんだんに登場します。イーサン・ホークのヴォーカルは本人の実演です。スティーヴ・ウォールはロック・バンド、ザ・ウォールズのヴォーカリストですから、こちらもいい演奏。トランペットの演奏は、実演かどうかはどちらも不明ですが、演奏シーンはリアリティが失われないようたいへん気が配られており、音楽ファンとしてはストレスなく没頭できるのがうれしいところ。『ブルーに生まれついて』に出演する「そっくりさん」のそっくり具合もなかなかで楽しめますね。

それはさておき、どちらの映画もストーリーの根底に流れるのはチェット・ベイカーの薬物依存症。映画以前もそのイメージで語られることが多いチェットでしたが、映画でまたここまでやっていいのか、それも2本も作られて……、と思う部分もなきにしもあらずでした。音楽の素晴らしさだけでなく、そっちも強く印象に残ってしまうんですよね。

じつはチェット・ベイカーの映画は、これ以前にもう1本ありました。『マイ・フーリッシュ・ハート』は3本目なのです。その映画とは『レッツ・ゲット・ロスト』。ファッション写真の第一人者ブルース・ウェーバーが制作・監督したドキュメンタリー映画で、1988年に制作され1989年度のアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされています。3本も映画が作られたジャズマンはチェット・ベイカーだけでしょう。その理由は人気のためか、はたまた「伝説」のためなのか。


『レッツ・ゲット・ロスト(Let’s Get Lost)』
監督:ブルース・ウェーバー/アメリカ映画/1988年制作・1989年日本公開


このドキュメンタリーにはチェット本人が出演し、長期間の密着取材によるインタヴューだけでなく、若い頃のテレビでの演奏、出演映画などのめずらしい映像や、結果的に生前最後となったスタジオ・レコーディング・セッションやステージのシーンもあります。また、チェットの数々の有名な写真を撮影したウィリアム・クラクストン(チェットの人気の一部分はクラクストンの写真が作ったはず)、レコード・プロデューサーのリチャード・ボック、そしてチェットの母親まで登場します。いずれの人物も『ブルーに生まれついて』では重要な役で登場しますが、こちらはもちろん「本人」です。

そして、薬物に関わるトラブルがもとで暴漢に歯を抜かれた話、軍隊からの逃亡、イタリアでの逮捕投獄事件などの「伝説」が、本人や元妻、ガールフレンドたちが証言。その映像はドキュメンタリーとしては過剰なほど演出されていますが(映像作品としては素晴らしい。全編、暗部をつぶしたモノクロというのも大胆)、内容は当然ながらじつにリアル。ほかにも、チェットが薬物の調合について淡々と語ったり、意外にも子供の話まで。さらにその子供たちまで登場するなど、驚きの連続です。

これらは『ブルーに生まれついて』『マイ・フーリッシュ・ハート』の「もとネタ」といえるものばかり。劇映画作家たちが参考にしていたことは明らかですが、この『レッツ・ゲット・ロスト』を観ると、2本の「劇映画」は、「リアル」とはまったくの別物であると感じられます。冒頭で、「劇映画でここまでやっていいのか」と書きましたが、『レッツ・ゲット・ロスト』に比べれば、「リアル」の領域にはまったく踏み込んでいないといってもいいくらいです。

『レッツ・ゲット・ロスト』は、チェットへの「人生は退屈?」という質問から始まります。ミュージシャンに対しての質問としては、ちょっとありえないものですが、これが全体の通奏音となります。そして、ラストでのブルース・ウェーバーの「チェット、薬のやりすぎだよ」に対するチェットの答えの深い闇。そしてそこに重なる訃報からエンド・クレジットへ……。チェットの生涯は「伝説」にしておかないと(劇映画の物語として語らないと)重すぎるほどのものだったということなのでしょう。モノクロの映像も、これは映画の中での出来事にしておきたいという表現だったのかもしれません。

『レッツ・ゲット・ロスト』は、現在はソフトの入手が難しいですが、チェット・ベイカー・ファンなら必見の映画といえるでしょう。あの「伝説」を超えるリアルを知るのが怖くなければ、ですが。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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