九州征伐後に肥後へ移るも一揆により失脚

天正13年(1585)、豊臣秀吉自ら越中の攻略に乗り出し、富山城を約10万の大軍で包囲。佐々成政は降伏し、命は助けられたものの、越中東部の一部をのぞいて全土を没収され、妻子とともに大坂へ移住させられました。御伽衆として豊臣秀吉に仕えることになります。

豊臣秀吉の九州征伐に従った佐々成政には、肥後一国が与えられます。ところが、佐々成政の検地に反発して国人衆が一揆を起こし、自力では鎮められない事態となってしまいます。

内心では佐々成政を快く思わない豊臣秀吉が、わざと一揆の起こりやすい肥後国を与えたとも、豊臣秀吉の政策を愚直に実行した佐々成政の性格が災いしたとも、諸説あります。

熊本城南面の古城堀端公園。佐々成政が肥後に入った時期には、隈本古城があった

熊本城南面の古城堀端公園。佐々成政が肥後に入った時期には、隈本古城があった

加藤清正によって、隈本古城は熊本城二の丸として組み入れられ、高石垣が築かれた

加藤清正によって、隈本古城は熊本城二の丸として組み入れられた

秀吉の怒りにふれ尼崎城下で切腹

天正16年(1588)7月7日(閏5月14日)、肥後国人一揆の責めを受けて、摂津国(現在の大阪府・兵庫県)尼崎城下の法園寺にて切腹。安国寺恵瓊による助命嘆願は聞き入れられませんでした。生年がはっきりしないため諸説ありますが、享年53歳といわれます。

死を目前にして、豊臣秀吉の居城・大坂城に向かって、自らの臓腑を投げつけたという逸話が残ります。豊臣秀吉に対する、佐々成政の激しい感情が偲ばれます。

一方で、佐々成政には別の一面もうかがえます。富山市(旧大山町)馬瀬口の常西用水の川底には「佐々堤」とよばれる堤防の跡が残っています。急流で知られる常願寺川は、大水によって、 富山城下に水害をおよぼすことが多かったのです。そこで、佐々成政が堤防を造り、治水を実現したのです。

織田信長に忠義を尽くして出世し、死後も織田家への忠誠心を失わなかった佐々成政。豊臣秀吉と争い続け、雪山を越えてまで徳川家康を説得しようとした、行動力を備えた人物です。さらに、富山城主時代には治水事業で功績も残しています。そんな佐々成政が、肥後国の統治に失敗した「真実」とは、いったい何だったのでしょうか?

2019年3月に再建された尼崎城。建てられた場所は、以前の西三の丸の位置に当たる

2019年3月に再建された尼崎城。建てられた場所は、以前の西三の丸の位置に当たる

法園寺本堂内には墓石の五輪塔が立つ。佐々成政の肖像画は寺宝のひとつ

法園寺本堂内には墓石の五輪塔が立つ。佐々成政の肖像画は寺宝のひとつ

※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。

写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。

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