信長は京に入ると、義景に上洛して服従することを命じましたが、義景は拒否して国境の防御を固め、さらに本願寺や延暦寺と連合して信長に対抗しました。
信長は朝倉氏が敵であることを義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃しました。元亀元年(1570)、信長は朝倉氏征伐に出発し、敦賀郡を攻略して進撃を続けていると、途中でまさかの出来事に遭遇します。妹・お市の方が嫁いでいた近江の浅井長政が反旗を翻したのです。朝倉氏に味方して信長軍の背後を衝いたため、信長は窮地に追い込まれてしまいました。
このとき、撤退する信長軍の最後尾にあたる殿軍を任されたのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と池田勝正、そして明智光秀でした。「金ヶ崎の退き口」と呼ばれ、秀吉の活躍がよく知られていますが、光秀もまた大きな役割を果たし、信長は無事に京へ逃げ帰ることができました。
比叡山焼き討ちと坂本城の築城
京に戻り形勢を立て直した織田信長は、徳川家康の協力を得て、近江姉川で朝倉・浅井連合軍との決戦に挑みます。序盤は朝倉・浅井軍が優勢に進めるものの、徳川軍の力戦などによって次第に形勢が逆転し、朝倉・浅井軍は小谷城(滋賀県長浜市)へと敗走することになりました。
続いて信長は、朝倉・浅井軍と協力関係にあった延暦寺に狙いを定めます。元亀2年(1571)9月、織田軍は石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲し、全軍に焼き討ちを命じました。この比叡山焼き打ちは明智光秀が中心になったとされています。
比叡山東麓にある天台真盛宗の総本山・西教寺もこの時に燃えてしまいますが、翌年には光秀が復興に尽力。境内には、光秀や妻・煕子が埋葬される「明智一族の墓」や、坂本城の遺構と伝わる総門など、光秀ゆかりの史跡が残っています。また、元亀4(1573)年頃の今堅田の戦いで、戦死した部下を弔うために、光秀が西教寺に寄進した供養米の寄進状も展示されています。
比叡山焼き打ち後に、光秀は坂本城を築城します。坂本城は、織田家臣の中で初めて、居城としての築城が許された城だとされ、光秀に対する信長の評価の高さの現れではないかと考えられています。
坂本城は城内に琵琶湖の水を引き入れた「水城」でした。光秀の茶の湯の師匠である津田宗及が坂本城を訪れた際には、「茶会のあと、城内から御座船に乗って安土城に向かった」と記しています。さらに、イエズス会宣教師・ルイス・フロイスは、「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と記録。高層の大天主と小天主がそびえる豪壮な城だったとも伝えられ、坂本城は近世城郭の先駆的な存在だったと考えられています。
【黒井城に籠る「丹波の赤鬼」と対決。光秀の波乱の人生の後編、~その2~に続きます】
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。