主婦として家族のために丁寧に料理を作り、46歳の時に料理研究家となった故・鈴木登紀子さん。96歳で逝去するまで、料理教室で料理を教え、数々のレシピ本を手がけました。そんな登紀子さんはこう言います。「料理は“手間”ではないの。命と心を育む大切な人間の営みなのです」。登紀子さんの著書『『誰も教えなくなった、料理きほんのき』から、食べる人のことを想い、お腹だけでなく、心も満たす登紀子さんの料理のエッセンスをご紹介します。
指導/鈴木登紀子
牛肉は常温にもどして調理。「外側は焦げ焦げ、中は冷たいまま」となりませんように
以前、ある雑誌の取材で「最後の晩餐で食べたいものは何か」と聞かれたことがあります。「お寿司かしら。おいしいまぐろの赤身がいいわね。夫の大好物だったの」と答えました。自宅で亡くなった夫の最後の晩餐は焼き魚とご飯という、なんとも寂しい御膳になってしまって、それがかわいそうで申し訳なくて……。せめて、あちらへ逝く前に、大好きだったまぐろのにぎりをお腹いっぱい食べさせてあげたかったと悔やんだものです。
でも、お肉も捨てがたいのよね。上等な牛フィレ肉のステーキをほんのちょっといただいて、あちらで待っている夫の元へ、ルンルンと旅立って行きたい気もしています。
お肉はやはり、元気が出ます。私はおいしいお肉が食べたくなると、お料理教室の定番にもなっている「牛のたたき」(※レシピ【1】)を作ります。自宅でステーキを完璧に焼くのは至難の技。シンプルだからこそ一歩間違えると、高いステーキ肉が台無しになるリスクが伴います。その点、ブロック肉をゆっくり焼くばぁばの牛肉のたたきなら安心。手頃な輸入肉でも失敗なくおいしく焼き上がります。
牛肉のお料理で大事なのは、料理する1時間ほど前に冷蔵庫から出し、常温にもどし、焼く前に下味を浸けておくこと。たとえば「牛のたたき」ならば、焼く直前に塩、こしょうをふって手でよくもみ込みます。また、ステーキ肉など厚みのあるものは、脂肪と赤身の間にある白い筋に切り込みを入れる「筋切り」で、肉の縮み予防をしておくことが肝要です。これは豚肉にも当てはまります。カツレツ用のロース肉なら、脂身の部分にも何カ所か切り込みを入れておきましょう。
理に適った下ごしらえ「霜降り」の粋
また、ばぁばは骨つきラム肉も大好きです。ラム肉はその独特の風味が苦手、という方も多いようですが、ハーブと一緒にマリネしてから焼きますと、においが和らぎますし、実山椒のたれに漬け込んでローストする「有馬焼き」(※レシピ【2】)なら、香ばしく爽やかな味わいに昇華します。ラム肉は加熱すると硬くなりやすいので、筋切りをしっかりとして下味をつけ、15分ほどなじませてから火を通します。くれぐれも焼きすぎにはご注意ください。
ところで、魚介の下ごしらえでご紹介した「霜降り」は薄切り肉でも重宝します。「湯引き」とも言ったりするこのひと手間は、肉や魚介をさっと熱湯にくぐらせたり、または熱湯をかけたりしてから氷水で急激に冷やす作業をいいます。加熱により表面が白っぽくなり、まるで霜が降りたように見えるのが名前の由来です。とても美しい名前ですね。このような感性にも、日本料理の粋を感じずにはいられません。熱湯に通して一気に冷やすことで、お肉をキュッと引き締めてうまみも閉じ込めることができます。熱を加えすぎることがありませんから、たんぱく質が凝固せず、やわらかな食感や持ち味を損なう心配もありません。じつに理に適った下ごしらえなのです。
霜降りにしたお肉は加減酢(二杯酢や三杯酢にだしを加えたもの)や加減じょうゆ(しょうゆにだしを加えたもの)、梅肉じょうゆでさっぱりとどうぞ。あるいは、お野菜と合わせてポン酢などをかけていただく冷しゃぶもよし、新鮮な鶏のささみであれば、霜降りにしてわざびじょうゆで。とりあえずの酒肴にも洒落ています。
魚介と同様に、お肉の霜降りは迅速に手際よく。熱湯にも氷水にもささっと入れて素早く引き上げることです。熱湯にいつまでも入れていたのでは煮え切ってしまいますし、氷水に浸しっぱなしではせっかく閉じ込めたうまみが水の中に逃げてしまいます。生のようで生でない、しかし新鮮な口当たりが霜降りの身上。目と手を離してはいけませんよ。
肉の下ごしらえのコツ
肉は繊維に垂直にカット
肉を切るときは、繊維の方向を確かめて、繊維に対して垂直にカットすると、身が縮まらずやわらかく仕上がり、食べやすくなる。
焼く直前に塩をふる理由
肉も魚も塩をふってから焼く。魚は臭みをとるため、焼く10分くらい前(脂の強い青魚は30分から1時間前)にふるが、肉の場合は焼く直前にふる。塩をふると焼いたとき表面がすぐ固まるため、うまみの流出を防いでくれる。塩をふって放置しておくと、肉から水分が出てうまみ成分も逃げるので要注意。
肉は先に炒める
野菜より肉を先に炒めるのは、肉を高温で焼いて表面をコーティングさせることでうまみと水分を逃さないようにするため。野菜のあとで肉を入れると、野菜の水分で肉がぐちゃっとしたり、肉の臭みが野菜に移ったりしてしまう。
「肉がくっついてしまう!」を防ぐ方法
鍋に火を入れると、肉がくっついてしまいがち。鍋にサラダ油大さじ2を弱火で熱したあと、一旦火からはずし、鍋底にぬれ布巾を当てて冷ます。そのあと肉を入れるとくっつきにくくなる。
レシピ
【1】「牛のたたき ばぁば風」(4人分)
1.牛ももかたまり肉(他の部位でもよい)400gは塩大さじ1をふり、手でぺたぺた叩いてなじませる。粗挽きこしょう適量を全体にふる。
2.フライパンを熱し、牛肉を入れて中火で転がしながら、全体に焼き色をつける。いったん火を止め、酒・しょうゆ各大さじ3を加えて蓋をし、弱火で6〜7分蒸し焼きにする。途中で一度返し、再び蓋をして焼く。
3.肉をバットに取り出し、焼き汁を少し煮詰めて肉にかける。
4.肉が冷めたらごく薄く切って器に盛り、おろしにんにく・しょうが各1片分、刻んだあさつき5〜6本分をのせる。焼き汁をかけていただく。
【2】「骨つきラムの有馬焼き」(4本分)
1.骨つきラム肉4本は筋切りをする。
2.バットに塩小さじ1、酒大さじ2、しょうゆ大さじ1を合わせ、包丁でたたいて粗く刻んだ実山椒の佃煮(びん詰め)大さじ1を加えてさっと混ぜる。
3.ラム肉を(2)に漬け、15分ほど常温で寝かせる。7分ほどしたら途中で裏表を返す。長くおきすぎるとしょっぱくなるので注意。
4.250度のオーブンで、天板にクッキングペーパーを敷いて(3)を並べ7分焼く。
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『誰も教えなくなった、料理きほんのき』(鈴木登紀子 著)
小学館
鈴木登紀子(すずき・ときこ)
日本料理研究家。1924年(大正13年)青森県八戸市生まれ。2020年、96歳で逝去。
自宅で始めた料理教室をきっかけに、46歳のときに料理研究家としてデビュー。以来、料理教室を続けるかたわら、「今日の料理」(NHK)をはじめとするテレビ、雑誌、WEBメディア等で、家庭料理にこだわった和食の心を伝えている。その軽妙で上品な語り口とともに、「ばぁば」の愛称で人気を博す。1974年出版の『酢のものあえもの』(共著・宮野和子 グラフ社)をスタートに、『「ばぁばの料理」最終講義』(小学館)、『ばぁばの100年レシピ』(文化出版局)など著書は60冊を超える。