日本全国には大小1,500の酒蔵があるといわれています。しかも、ひとつの酒蔵で醸(かも)すお酒は種類がいくつもあるので、自分好みの銘柄に巡り会うのは至難のわざです。

そこで、「美味しいお酒のある生活」を提唱し、感動と発見のあるお酒の飲み方を提案している大阪・高槻市の酒販店『白菊屋』店長・藤本一路さんに、各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本を選んでもらいました。

【今宵の一献】新潟県糸魚川市「池田屋酒造」『謙信 純米吟醸・五百万石』

『謙信 純米吟醸・五百万石』1800ml 3024円(税込み)

『謙信 純米吟醸・五百万石』1800ml 3024円(税込み)

皆さんは “塩の道”というのをご存知でしょうか。私たちの体に欠かせないミネラル分の塩を海から内陸へと運んだ街道のことで、古くから各地にあった交易ルートです。海辺からは塩や海産物がもたらされ、逆に山国からは大豆・煙草・麻などが運ばれていったわけです。

なかでも、代表的な塩の道が、日本海側の新潟県糸魚川から長野県は松本盆地の塩尻へといたる千国街道(ちくにかいどう)、そして太平洋側の愛知県足助から伊那盆地を経てやはり塩尻にいたる三州街道などです。

この塩の道をめぐる有名な戦国時代の逸話が伝えられています。

永禄10年(1567)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の三者によって結ばれていた和平協定が崩壊します。義元が桶狭間で織田信長に討たれたことで三国の勢力バランスが崩れたのがきっかけでした。

義元亡き後、天下の覇権をねらって動き出した信玄に対して、今川氏真は太平洋側からの塩の輸送をとめて、武田の領民を疲弊させる策に出ます。

この「塩止め」によって窮地に追い込まれた信玄の危難を救ったのが、長く敵対関係にあった越後の上杉謙信でした。

もともと「甲相駿(こうそうしゅん)」の三国不可侵の和平協定は、信玄にとっては越後の謙信を牽制する策でもあったのですが――当の謙信は「争うべきは弓矢にあり、米や塩にあらず」として、越後の日本海ルートの「塩止め」を行うことはしなかったのです。そこから争っている相手にも援助を与えるという意味の“敵に塩を送る”という言葉が生まれたと伝えられています。

敵に塩を送る謙信の話が史実か否かには諸説がありますが、古き良き日本人の美点をみるようで、私自身は非常に好きな逸話です。

池田屋酒造正面玄関。

池田屋酒造正面玄関。

今宵の一献に推奨したいのは『謙信』。日本海側の塩の道の起点にあたる新潟県糸魚川市に、江戸後期の文化9年(1812)の創業から6代続く老舗の蔵元「池田屋酒造」の純米吟醸酒です。

池田屋酒造の前の白馬通りは、今は少し閑散とした感はありますが、往年は海産物問屋や旅籠・魚屋が立ち並び、牛を使って荷物を運ぶ行商人など多くの旅人が行き交って大層賑っていたそうです。ここに塩や海産物が集められ、荷造りされては信州へ運び出されていったのです。

池田屋酒造の裏手に位置する真宗大谷派の寺院「西性寺(さいしょうじ)」には、塩の道を往還する人たちが休憩や商談のために牛を括りつけた大きな岩が「牛つなぎ石」の名で保管されてもいます。

発酵中の仕込タンク。

発酵中の仕込タンク。

池田屋酒造の製造石数は800~900石ですが、その半分は地元の新潟県内で消費される普通酒や本醸造酒です。仕込みの時期は、10月頭から4月中頃までと少々長めです。これは、あえて作業を詰め込み過ぎないよう、余裕をもたせたペース配分を心掛けているからだそうです。

新潟のお酒といえば、誰しも「水のごとき“淡麗”で、すっきりした“辛口”」と思われるかも知れませんが、『謙信』は違います。
6代目蔵元の池原達弘(いけはら・たつひろ)さんが目指す味わいは「芳醇にして綺麗な甘みのあるお酒」です。

6代目・池原達弘さん。

6代目・池原達弘さん。

私が初めて池田屋酒造を訪ねた折、蔵内から現れた池原さんはスラっと背が高く細身で、見るからに“淡麗辛口”を擬人化したような印象の方だとお見受けしました。しかし、いろいろ話をおうかがいするうち、穏やかな優しさが実直さのなかに伝わってきて、その人柄が“瑞々しく芳醇な甘さ”を持つお酒の味わいに重なるように感じたのを憶えています。

ここ糸魚川市は新潟県の最西端に位置しています。すぐ隣は富山県です。食文化もどちらかといえば、富山寄りだそうです。

酒づくりについては、元来は旨みのある辛口タイプが主体だったといいますが、今は池原さんが目指してきた「綺麗な甘み」を備えた味わいの酒へと変化を遂げています。『サライ』本誌2月号で「変わりゆく新潟の酒」として、池田屋酒造の『謙信』が記事になったのを記憶されている方も、あるいは多いかもしれませんね。

池原さんが自分でイメージする香味の酒づくりを杜氏と共に目指し始めたのは平成21年度から。しかし、26年には杜氏が高齢によって引退。27年度のつくりからは、杜氏制をなくして、地元農家の若者3人と共に酒造りに取り組んできました。その3人は酒造りのない時期は、『謙信』を仕込む酒米の「五百万石」や「越淡麗(こしたんれい)」を育てることに専心しています。

「越淡麗」は山田錦と五百万石の長所を併せ持つ、きわめて優れた酒米の新品種です。

麹室にて麹造り作業。

麹室にて麹造り作業。

池田屋酒造の蔵は鉄筋3階建て。1階は貯蔵タンクとヤブタと呼ばれる搾り機があります。使用する酒米の大半は自社で精米を行っています。

2階は米を蒸す釜場と麹をつくる麹室(こうじむろ)、3階にはお酒のもとになる酒母(しゅぼ)をつくる室があります。
仕込み水は、地下20mの井戸水を使用していますが――水質はもともと硬度7の中硬水ですが、海の近くでもあることから、浄水システムを組み込むことで、硬度1にまで調整して仕込み水にしています。

『謙信 純米吟醸』は、酒米「五百万石」を50%まで磨き上げた上質な甘みみと、新潟の酒らしからぬ酸を備えていて、林檎を思わせるジューシー感を持っています。同じ『謙信 純米吟醸・五百万石』でも一般流通させているものとはラベルも中身も少し違って、今回紹介するのは「中取り」と呼ばれる最良の部分のみを瓶詰め、低温で瓶貯蔵させた限定流通バージョンです。

火入れ酒(熱処理済み)ならではの落ち着きはありますが、まだまだフレッシュさも感じさせてくれます。

池田屋酒造の自社精米機。

池田屋酒造の自社精米機。

およそ新潟清酒とは思えない飲み口は、活性炭処理を行っていないという点も大きく影響しているかと思われます。
活性炭処理は、いわゆる「炭濾過(すみろか)」と呼ばれるもので、その工程を経ることで、酒についた好ましくない色や香りを取り除くことができます。

新潟の酒といえば、炭濾過をしっかりとかけることで、無色透明でさらりとしたタイプというのが、いつの頃からか主流になりました。

炭濾過は出荷後の品質変化も抑える、ひとつの技術ではありますが、同時に酒本来の旨味を多少なりとも取ってしまいます。その点、画一的な味わいになりやすく、各蔵元の個性が出にくくなるのも事実です。

発酵終了間近のもろみ。

発酵終了間近のもろみ。

ここ数年、新潟でも炭濾過を行わない蔵元が増えています。その流れは、新潟流の端麗辛口とはまた違った、新しい時代に向かいつつあるという証であるかも知れませんね。

今回、堂島『雪花菜(きらず)』の間瀬達郎さんが『謙信』の味わいに合わせて用意してくれた料理は「毛ガニと秋の味覚和え」です。

いわゆる毛ガニの酢の物のようなイメージの一品で、花びら茸・リンゴ・栗・柿・スナップえんどうにカニ味噌が少々、その上には揚げた牛蒡(ごぼう)をあしらっています。花びら茸は八方酢で一度炊いてあるとのことです。焼いたカニの甲羅で出汁をとり、酢を加えてジュレ状に仕上げたもので和えています。それぞれの具材単位でお酒と合わせてもピンときませんが、まとめて口に放り込み、よく冷えた『謙信』を含むと、毛ガニと果物からくる甘み、そして料理全体のさわやかな酸味がジューシー感のある酒の味わいと見事なハーモニーを奏でます。

牛蒡と栗のほのかな香ばしさも良いアクセントになっています。

毛ガニと秋の味覚和え。

毛ガニと秋の味覚和え。

「今回は『謙信』にリンゴ系の風味を感じましたので」というのが、間瀬さんの料理の発想のヒントだったそう。

ところで、カニといえば、冬が旬のように思えますが、毛ガニは北海道周辺で通年獲れるものなんだそうですよ。

料理と合わせたとき、意外だったのは『謙信』の味わいがやや強く感じられたことですが、これはお酒の熟度が関係しているのでしょう。もう少しお酒が熟成してこなれてくると、さらに味が料理に寄り添うに違いありません。

契約農家の五百万石。

契約農家の五百万石。

さて、旧暦10月は「神無月(かんなづき)」。一般的には、全国の神々が一斉に出雲の国に集まることから、各地に神さまがいなくなる月、つまりは「神無月(かみなしづき)」として知られています。

ほかにも諸説があって、雷の鳴らない月「雷無月(かみなしづき)」からきたとか、その年に収穫した穀物から酒を醸す月「醸成月(かもなしづき)」から転じたともいわれます。当然、私たち酒に携わる者としては、新しい穀物で酒を醸し始める月という説を支持するわけですが、さて――。

その10月「醸成月」も早や半ばをとうに過ぎて、全国の蔵の大半はすでにもう28年度の酒の仕込みに入っています。

トリミング/藤本さんIMG_0403
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。

■白菊屋
住所/大阪府高槻市柳川町2-3-2
TEL/072-696-0739
営業時間/9時~20時
定休日/水曜
http://shiragikuya.com/

トリミング/間瀬さん雪花菜7
間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。

■堂島雪花菜(どうじまきらず)
住所/大阪市北区堂島3-2-8
TEL/06-6450-0203
営業時間/11時30分~14時、17時30分~22時
定休日/日曜
アクセス/地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分

構成/佐藤俊一

 

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