中世の市(いち)には様々な物売りが店を開き、時には、商人同士の諍(いさか)いもあったようだ。『酢薑(すはじかみ)』は、酢売りと薑(はじかみ)売りが都の市で言い争いをする。
津の国からやってきた薑売り(アド)。同じ市で商いをしようとやってきた酢売り(シテ)に対し、自分の先祖は宮中から「商人司(あきうどづかさ)」という称号を頂戴しているから、「身共(みども)へ断りなしに売らすことはならぬ」と嫌がらせをする。すると酢売りは自分の先祖も商人司だと言い返し、お互いの系図自慢が始まる。
ここからは狂言らしい言葉遊びで、薑売りは、「唐橋を打渡り、から門に入り、唐竹椽(えん)に畏(かしこ)まる、その時唐紙障子をからりとあけ…」と薑の「辛さ」に掛けた言葉で物語る。酢売りも負けじと、「推古天皇の御時」と語り始め、「かすこまってすうらふ」などと「す」尽くしで対抗。
さらに、酢と薑の秀句(しゅうく)、今でいうダジャレの応酬を重ねるうち、互いに心が通って一緒に商売をしようと笑い合う、微笑ましい狂言だ。
薑は現在、生姜の別名と認知されているが、かつては山椒の別名だったという。また古い狂言本には、この狂言、『酢辛皮(すからかわ)』という曲名で記載されている。辛皮とは山椒の小枝を塩漬けにしたもので、調味料や薬として食されていた。
一方の酢売りは、「和泉の堺の酢売り」と名乗る。シテの台詞に「和泉酢は名物」とある通り、桃山時代まで酢と言えば、和泉酢がもっとも上質な銘柄として知られていたようだ。
西暦400年頃、朝鮮半島から酢の製法が港町・堺へと伝えられ、泉州(せんしゅう)・山直郷(やまたべごう)、今の岸和田あたりが和泉酢の産地として栄えたと伝わる。
酢売りと薑売りの、「毎年おびただしう売る事でござる」と言う台詞からも、中世の市の賑わいが見えてくるようだ。
写真・文/岡田彩佑実
『サライ』で「歌舞伎」、「文楽」、「能・狂言」など伝統芸能を担当。
※本記事は「まいにちサライ」2013年10月2日掲載分を転載したものです。