取材・文/長嶺超輝
あまり知られていないが、裁判官には、契約や相続などのトラブルを裁く「民事裁判官」と、犯罪を専門に裁く「刑事裁判官」で分かれている。片方がもう片方へ転身することはほとんど起きず、刑事裁判官は弁護士に転身するか65歳の定年を迎えるまで、ひたすら世の中の犯罪を裁き続ける。
では、刑事裁判官は、何の専門家なのだろうか。日本の裁判所は「できるだけ裁判を滞らせず、効率よく判決を出せる」人材を出世ルートに乗せる。判決を片付けた数は評価されるが、判決を出したその相手が、再び犯罪に手を染めないよう働きかけたかどうかは、人事評価で一切考慮されない。
その一方、「人を裁く人」としての重責を胸に秘め、目の前の被告人にとって大切なことを改めて気づかせ、科された刑罰を納得させ、再犯を防ぐためのきっかけを作ることで、法廷から世の中の平和を守ろうとしている裁判官がいる。
刑事訴訟規則221条は「裁判長は、判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる」と定める。この訓戒こそが、新聞やテレビなどでしばしば報じられている、いわゆる「説諭」である。
連載初回となる今回は、若い頃から働き者だった男が病に倒れ、寝たきりになった状態で自宅を放火した事件の裁判で、裁判長が男に贈った説諭を紹介させていただきたい。
* * *
■突然の火災
男は床に伏せて、うねうねと複雑に婉曲する天井の木目模様をジッと見つめていた。
このままの生活を続けているのでは、妻に申し訳ないと思った。
硬くなった全身を必死で動かし、男は四つん這いで廊下へ出た。この生活に終止符を打たなければならない。そう覚悟したのである。
「家が燃えている」
近隣の住民から119番通報が入り、現場に駆けつけた消防士が男を救助し、懸命の消火活動を続けた。しかし、炎のめぐりが早く、あっという間に家を包み込んでいく。そして、壁や屋根がたちまち音を立てて崩れていき、あえなく「全焼」という結果となった。
ようやく鎮火した焼け跡へ捜査に入った警察は、早速異変に気づく。完全に焼け焦げた場所が不自然に広範囲にわたっていたからだ。ガソリンなどをまいて何者かが火を放った可能性が浮上した。その第一容疑は、燃えさかる住居から救助された男にかけられた。男は妻とふたり暮らしだったが、火災当時、妻は出かけていたからだ。
■意識を取り戻した男
大量の煙を吸い、しばらく気を失っていた男性住人は、病院のベッドで意識を取り戻した。ついさっきまで、赤々と炎を上げる自宅内で、どれだけ身を焦がしても床に伏せてジッと動かずにいた男だったが、今は真っ白な天井や壁に囲まれた冷え冷えとした空間で、あおむけになっている。
男の胸の中では、後悔の念がグルグルと渦巻いていた。若い頃、必死に働いて建てた自宅を犠牲にしてまで、図ろうとしていた自殺が失敗したことを思い知ったのだ。
ベッドの横で腰かけて、心配そうに見つめる妻の姿に気づく。男は両手でシーツを強く掴み、大声をあげて泣き叫んだ。
「ごめん、ごめん……」
「死ねなかった……」
人目もはばからず泣きじゃくる夫の手を、妻は黙ったまま、優しく握った。
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