【サライ・インタビュー】
南こうせつさん(みなみ・こうせつ、フォークシンガー)
――ファンに見つけてもらった曲を歌い続けて50年――
「誰にもある“楽しかった思い出”。懐かしむのは、明日の生きる薬です」
※この記事は『サライ』本誌2020年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/太田真三)
──デビュー50周年です。
「長いよね。でもなんか楽しかったな、うん。だってギター抱えた大分の田舎の青年がだよ、時には仲間と“フォーク(ソング)とは何ぞや”と議論を戦わせ、“俺、このままでいいのかな”と悩み、気付いたら50年なんだから」
──デビューの経緯を教えてください。
「僕がデビューした1970年はアメリカがフォーク全盛で、日本のレコード会社に“新しいフォークのレーベルをつくろう”という気運がありました。東京の大学でフォークをやっていた僕のもとにも、3社から誘いがありました。で、ソロでデビューすることになり、気持ちよく歌ってたんですが、これがまったく売れない。それですぐに『南高節とかぐや姫』(第1期かぐや姫)を結成して、『酔いどれかぐや姫』という曲を出したんです。“あなたはかぐや姫なのか、それともババアなのか”っていう僕の詞、いいでしょ? でもレコード会社の人間が“こんな詞じゃ商売になりません”と連れてきた作詞家が『北の宿から』や『UFO』の阿久悠さん。僕らの歌は、まだ有名になる前の阿久悠さんの作詞で全然別の歌となって、世に出ると、一定の評価を得ました」
──続いて『神田川』の大ヒット。
「あれはね、本当に偶然なんです。第1期かぐや姫のあと、高校の後輩だった伊勢正三と、当時人気だったシュリークスが解散するというんで、そこのベースの山田パンダを誘って『かぐや姫』(第2期かぐや姫)を結成します。そこそこ売れたんですよ。でもレコード会社は“お前らにはヒット曲がない”というんです。僕はね、反論しましたよ。そもそも“売れることが目的じゃない”と3人で誓い合って始めたバンドです。その僕らに“売れろ”だと? 冗談じゃない。そしたら“だったら宣伝費もスタジオ費も出さないがいいか”って。僕らにとっては水道を止めるぞと言われているようなもんで、慌てて取りなしました。そもそも〈まあまあの南〉が当時の僕のニックネーム。何せ曹洞宗の寺の三男坊ですからね。かのお釈迦様も6年の苦行で体を壊し、その時にスジャータという少女からミルク粥を施してもらい一命を取り留めた。苦でも楽でもない、その真ん中、中道こそ生きる道だと悟るわけです。お釈迦様に倣って“会社と争っている場合じゃない、中道だ”と、アルバム『かぐや姫さあど』から売れそうな曲『僕の胸でおやすみ』をシングルで出しましたよ。で、これが結構売れたんです」
「『神田川』を聴いたファンがこの曲の良さを発見してくれた」
──かぐや姫の時代の到来ですね。
「『僕の胸でおやすみ』はオリコンチャートで60位台までいきました。会社はともかく自分たちは大満足です。でも本当にかぐや姫の時代が来たのは、その直後です。当時『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)という深夜番組のパーソナリティをやっていたんですが、そこでアルバム『かぐや姫さあど』のB面の『神田川』を何の気なしに流したんです。そうしたらリスナーから驚くほどの葉書が届きました。僕らじゃない。聴いたファンがこの曲の良さを発見してくれたんです。で、’73年9月にシングルとして発売したら……」
──ミリオンヒットを記録したんですね。
「戦後すぐ、街には『リンゴの唄』が流れました。’60年代を席巻したのは坂本九さんの『上を向いて歩こう』です。これらは、その時に人々が求めていた歌だったのでしょう。『神田川』もそうです。出した当時は、“軟弱だ”とか“女々しい”とか、散々叩かれましたよ。でも時は’70年安保が終焉、若者は次の道を模索していました。挫折し、傷ついた若者を、『神田川』が救ったのかもしれません。実際あとになって、安保闘争のリーダーのひとりが『神田川』に慰められたと聞きました。暴走族や不良からの人気も高かった。強がっている人ほど、なぜか惹かれていたのです。でも、この歌を皆が見つけてくれたことで、今の僕がある。本当に大切な歌です」
──『神田川』を歌い続けてきたんですね。
「実は違うんですよ。僕らかぐや姫の歌で『神田川』のように暗い曲はそんなにない。自分たちの本当の姿はここにないと思っていました。かぐや姫を’75年に解散した後も、20代、30代とこの歌を頑なに拒否してきたんです。“フォークにテレビは似合わない”とテレビ出演もできるだけ断ってきた。ところが、徐々にコンサートの観客動員数も落ちていき、CDも売れなくなってくる。当時は故郷・大分の国東半島に居を構え、妻も子どももいました。養わなければいけないけれど、前途が見えない。40歳になった時かな? たまたま、NHKから音楽バラエティの司会をやってくれないかという依頼があったんです」
──今まで避けてきたテレビの依頼です。
「『愉快にオンステージ』という番組で、さだまさしや堺正章さんが交代で進行を務めるというものでした。迷いましたし、不安でした。これまでこだわって生きてきた自分にとって、テレビ番組の司会はあり得ない。でもそのこだわりって何だと考えたら、こだわりに縛られてがんじがらめになっている自分に気づいた。だったらこだわりを捨てて、挑戦しよう。40歳の決断でした」
──やってみてどうでしたか。
「あれだけ拒否してきた『神田川』を番組で披露したんです。そしたらすごい数の葉書が届いたんです。ある手紙には、“久しぶりに聴いて元気をもらいました”と書いてあった。『神田川』を歌うことで元気になってくれる人がいる。こりゃ歌わないとバチが当たります」
──またしてもファンからの葉書ですね。
「本当にそうだなあ。いつも皆から教えられているんだな、きっと。でね、その番組で三波春夫さんや八代亜紀さん、都はるみさんと共演するわけです。ジュリー(沢田研二)とも一緒にやりました。演歌、歌謡曲……ジャンルじゃないんですね。それぞれの歌に救われている人たちがたくさんいる。フォークだ、ロックだってこだわっていた自分はいかにちっぽけか。40歳で引き受けたこの番組は、自分が脱皮する大きな転換点になりました。以来、“こだわりを捨てる”が僕のキーワードになっています」
──この時に「変わった」と。
「楽になりました。“楽しむ”という意味がわかったんですね」
──どういうことでしょう。
「ようは心のありようなんです。同じ物を見ていても人によって違う色に見えるように、同じ体験をしても“楽しい”と思えるかは自分次第なんです。先日、島倉千代子さんの七回忌法要に参列しました。最後のシングル『からたちの小径』の楽曲を提供した縁で最後の挨拶を引き受けたのですが、その時、“島倉さんは幸せだった”とお話ししました。離婚結婚を繰り返し、男に騙され、十数億円もの借金を背負い……という人生を、人は不幸というでしょう。でもね、本当に不幸なら人は顔がおかしくなります。最後のレコーディングに立ち会いましたが、島倉さんは素敵な笑顔で、声も美しかった。ところがその日の晩に緊急入院し、3日後に逝ってしまった。この時わかったんです。島倉さんは、壮絶な人生を自分で選んだんだと。そりゃ大変だったと思いますよ。でもすべて承知の上で、誰のせいにすることもなく、自分の人生を楽しんでいたんじゃないか。だって死ぬ間際まで、あんなに笑顔や声が美しかったんですから。怨んでいたら、そうはなりません」
「自分の内なる声に耳を傾けて、その通りにやってみる」
──ご自身の「楽しみ」とは。
「自分の内なる声に耳を傾けて、その通りにやってみることかな」
──具体的に教えてください。
「朝、目が覚めるでしょ? 目が開いた時に、ふと湧いてくるインスピレーション、これはかなり正しいです。“あの川に行きたいな”“あの木にもう一度会いに行こうか”“あのカフェの親父、どうしてるかな”こうやって浮かんだことを、その声に従って実行するんです。歯を磨いた後に浮かんだことは駄目ですよ。これはもう自分の都合ですから、邪念が入っている。詩人の三好達治も《ああ智慧は かかる静かな冬の日に/それはふと思ひがけない時に来る》と詩に詠んでいます(「冬の日」)。つまり、静かにしていると智慧──“あっちに行け”という心の声が聞こえてくるということです。その声に従うと、自分の人生を楽しむことができる。例えば“今日はボーッとしたい”という声が聞こえたなら、そうすればいいんです」
──ボーッと過ごすには勇気が必要です。
「ボーッと過ごす。こんな贅沢なことがありますか? 何日も前からスケジュールを埋めていくほうが、僕にいわせれば、自分の人生を誰かに明け渡しているような気がするな。例えばね、どんな人にだって“楽しかった思い出”がたくさんあります。懐かしむことは、明日を生きる薬です。決して後ろ向きじゃありません。ボーッとしながら思い出すんです、あの頃を。僕なんかよくやってますよ。月夜の晩、とっておきのお酒を引っ張り出してきて、月見酒です。初恋の人を思い浮かべながらね、“今の奥さんじゃねえぞ”とひとり呟いて、グッとあおる。“○○ちゃん、今、どうしてるかな?”と酒を飲むなんて、こんな楽しいことはありません」
──しかし楽しみにも終わりがあります。
「何にでも終わりがあります。人生だってそう。人生の終わり、いいじゃないですか。歳を重ねるということは、若い時分のエネルギーと同様、とても神聖なことです。若さや老い、生や死を、僕は同じ場所に入れています。死を含めて“生きる”ということなんだと思うんです。僕らがこの世にいることだって、何か意味があるんです。この世に生まれ、神様から子どもを授かり、家族となり、様々な縁を結んで、また繋がりができて。で、最後に“楽しかった”と終わりたい。僕はリインカーネーション(輪廻転生)を信じているんですが、“楽しかった”という思いが来世に繋がるんじゃないかなあ。マイナス志向も、プラス志向も、生き方がそのまま来世に反映されて、繰り返される」
──ご自身にとっての「終わり方」とは。
「今、日本の医療費は高騰していますよね。音楽療法が健康にいいこともわかってきましたし、人は笑顔でいると免疫力が高まるという研究もあります。僕らは、ビートルズやボブ・ディランに音楽の楽しさを教わった世代です。彼らがそうして来たように、もし僕が歌い続けることで人が笑顔になるなら、こんな嬉しいことはありません。歌えなくなったらしょうがないけど、だから最後まで歌っていたい。これも世のため人のためです」
──誰かのために生きる、と。
「人は、自分以外の人の役に立つことで満足感を得る、そういう生き物です。自分には人の役に立てることがない? そんなことはありません。例えば今より健康になれば、医療費も減って、税金もかからない。その分を若い人に回す。ほら、役に立ったでしょ? 遅くはありません。共に、自分の人生を楽しみませんか?」
南こうせつ(みなみ・こうせつ)昭和24年、大分県生まれ。昭和45年にデビュー。直後に「かぐや姫」を結成、『神田川』『妹』など数々のミリオンヒットを記録。33歳の時に大分の国東半島に転居、以来田舎暮らしを続ける。現在はソロとして「サマーピクニック」など精力的に活動。デビュー50周年を記念した3枚組ベスト・アルバム『南こうせつの50曲』、5年振りのオリジナル・アルバム『いつも歌があった』、エッセイ『いつも歌があった』が共に好評発売中。
●コンサートの情報は「南こうせつ公式サイト」まで(http://www.kosetsu.com/)
※この記事は『サライ』本誌2020年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/太田真三)