文/鈴木拓也
26歳の若さで現世に暇を告げた、歌人・石川啄木。その短く幸薄い生涯のなかで、数少ない幸福感と充実感に包まれていた時期は、じつは函館にいた4か月間であった。
啄木は、生前友人に宛てた手紙で「僕は死ぬときは函館で死にたい」と書いていた。彼にとっての心のふるさとは、故郷の渋民村(今の盛岡市)でも東京でもなく、たった4か月過ごした函館であったのだ。
なぜそれほどまでに、啄木は函館を愛したのだろうか? 今回はその3つの理由についてご紹介しよう。
■1:短歌の同人たちとの楽しい交流の日々があった
明治40年、渋民村の小学校の代用教員として勤務していた啄木は、校長排斥のストライキを扇動したことで、教師職を捨てて故郷を離れざるを得なくなった。そして向かったのが函館だった。ただし金銭的な事情のため、妻子は東北の妻方の実家に置いてきた。
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
5月5日、海路函館に到着した21歳の啄木は、当時北海道唯一の同人文芸誌『紅苜蓿』(べにまごやし)を発行する苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人らにあたたかく迎えられた。函館在住の同人たちにとって、歌人・啄木の来函は「鶏小屋に孔雀が舞い込むようなもの」であったという。
そして同人たちは連日のごとく、かわるがわる啄木を訪れ、文学論や恋愛観といった話題に花を咲かせた。歌会もしばしば催された。これがきっかけとなって、それまでもっぱら長詩に励んでいた啄木は、2年ぶりに短歌を詠むことになったのだ。
乳足りて泣く子は黙すことごとに
足らはぬ我は叛逆にゆく
ほどなく、啄木のなかに眠っていた短歌への創作意欲が復活し、のちに『一握の砂』や『悲しき玩具』として結実することになる。言い換えるなら、函館での同人との交流がなかったら、これらの歌集も生まれなかったかもしれない。
『啄木と函館』を著した啄木研究家の阿部たつをは、「彼らが集まって話し合うことは(中略)明るく楽しく熱をおびていて、そのような雰囲気に居ると、世間苦などとは縁遠い夢の国に住んでいるような気分に引き入れられたことだろう」と想像的に描写しているが、啄木にとって心から楽しい交流だったことは想像にかたくない。
■2:生涯の親友と出会えた
函館に居ついて2か月後の7月、人心地ついた啄木は、東北にいた妻子を呼び寄せ、苜蓿社に近い借家に新居を構えたが、経済的には予断を許さない状況であった。
引っ越しが済んで早々に啄木は、同年輩で苜蓿社の同人の中でももっとも気の合う仲となっていた宮崎郁雨に「兎に角一本立になって懐中の淋しきは心も寂しくなる所以に御座候」云々と書いた無心状を送っている。その後、啄木は何度となく借金依頼を重ねることになったが、郁雨はほとんどいつも躊躇なく啄木に金銭を貸した。
郁雨の啄木に対する信愛は生半可なものでなかったが、その大部分は、啄木の天与の詩才に対するあこがれと結びついていたのは間違いなさそうだ。
啄木の方でも郁雨に対し、お金の面で面倒見のよい人というレベルをはるかに超える、友誼の念を抱いていた。啄木は日記に「宮崎(郁雨)君あり。これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛を得たり」と記している。
啄木と郁雨の友情は終生続いた。啄木が没した後、函館の地に墓碑を立て遺骨を移したのも郁雨である。その郁雨も、今は啄木の墓碑のそばで永遠の眠りについている。
■3:ある女性への恋心が忘れられなかった
6月、啄木は函館の弥生尋常小学校の代用教員としての職を得た。生徒数が約1,100人というマンモス校であり、啄木は当初は「すべての学年に教えてみたい」と、日記に抱負を記していた。
ところが勤めはじめて1か月で、早くも悪い癖が出た。教職の仕事に倦いたのか、学校への不平不満がわだかまったのか、勤務をさぼり出したのだ。届け出もせず無断欠勤する日もあり、勤務中でも仕事より同僚職員への人間観察に精を出すようになった。
まず校長をはじめ男性職員らの印象について記し、その後で女性職員のそれぞれについて「豚の如く肥り」とか「黒ン坊」などと容姿面で罵倒した。しかし例外的に橘智恵子という教員については「真直に立てる鹿ノ子百合(かのこゆり)なるべし」と賛美した。
そしてとうとう7月中旬過ぎには学校に顔を見せなくなった。在職中は、啄木と智恵子との間になんら交流はなかったが、啄木は彼女に恋慕の情を抱いていたことが、後の行動から判明することになる。
不運なことに、8月25日に函館は大火に見舞われ、14もの町が全焼するなど甚大な被害を負う。啄木が、生活の糧を得るために勤め出したばかりの函館日日新聞も焼け落ち、印刷したての『紅苜蓿』第8号も全冊が灰燼に帰した。
啄木は、もはや函館で生活してゆくことはできないと観念し、後ろ髪を引かれる思いで、就職口のある札幌へと去ってゆく。そうしてわずか4か月間の、啄木の幸せな函館暮らしは終わった。
札幌に向かう前日の9月12日、啄木は智恵子の家をたずね、「わかれにのぞみて橘女史に捧ぐ」と表紙にペン書きした自分の詩集『あこがれ』を贈呈した。
函館を離れた後、啄木はまさに流浪の人生を送り、道内各地を転々としたのち、東京に至る。都では様々な不運や心を惑わせることが起き、精神的に弱りはてたときに、しばしば函館のことが思い返されるとともに、智恵子への想いがよみがえり、いかんともしがたくなったようである。
在京中に、智恵子宛てに手紙を出し、それから随分してから返信めいた封書を受けとってから、二人の間には何度か文通があった。啄木は、智恵子からの便りが来るたびに、「人の妻になる前に、たった一度でいいから会いたい!そう思った。千恵子さん!なんといい名だろう!あのしとやかな、いかにも女らしい歩きぶり!」などと、その躍り上がるような嬉しさを日記に記している。
しかし、遠方の地におり妻子ある身としては、再会は空想の域を出ることはなく、代わりに苦悶に近い思いを、短歌という形でぶつける。明治43年に刊行された歌集『一握の砂』には、智恵子を詠んだ実に22首もの歌が収められている。その中には
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
わかれ来きて年としを重ねて
年としごとに恋しくなれる
君にしあるかな
ように痛切な想いがにじみ出ているものもあり、智恵子関連の歌はいずれも名歌と評価されている。
結局、啄木は智恵子と二度と会うことはなかった。啄木は病苦と貧困のうちに26歳で世を去った。智恵子は「人の妻」となったが、33歳で病死した。
* * *
啄木が26年の生涯で函館にいたのは、4か月に過ぎない。しかし、彼の人生と作品にこれほど多くの抒情的影響を与えた場所は他にはないだろう。もし運命的に函館に来ることがなかったなら、喜びと哀切が相半ばする思い出を発酵させることもなく、彼の詩的名声は永久になかったはずである。
啄木は函館を離れた後も終生、郁雨をはじめ苜蓿社の盟友を愛し、ともに過ごした短い日々を懐かしみ、智恵子の面影に心ときめかせていたのである。
函館には、いまも啄木ゆかりの地が点在している。薄幸の歌人の短い人生のなかで、幸福感に満ちて輝いていた貴重な一時期に想いを馳せつつ、巡ってみてはどうだろう。
【大森浜と啄木小公園】
■所在地/函館市日乃出町25
■アクセス/漁火通沿いのパチンコひまわり日の出店向かい
【函館公園】
■所在地/函館市青柳町17
■アクセス/函館バスで函館公園下車 徒歩1分
■開園時間/終日
【函館文学館】
■所在地/函館市末広町22-5
■開館時間/4~10月は9時~17時、11~3月は9時~17時。12月31~1月3日のみ休館
■入館料/一般300円、学生150円
■ホームページ/http://www.zaidan-hakodate.com/bungakukan/
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーラ
【参考資料】
『啄木と函館』(阿部たつを/幻洋社)
『啄木を支えた北の大地』(長浜功/社会評論社)
『函館の砂』(宮崎郁雨/東峰書院)