はじめに-平野長泰とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する平野長泰(ひらの・ながやす、演:西山潤)は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳七本槍」の一人として名を知られる武将です。
福島正則や加藤清正(演:伊藤絃)ほど広く語られることはありませんが、秀吉の近習から出発し、戦場での功によって所領を得て、関ヶ原の戦いののちには徳川家にも仕えた人物でした。
この記事では、平野長泰が生きた時代背景と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、有能な家臣の選抜試験の最終試験に残る人物として描かれます。

平野長泰が生きた時代
平野長泰が生きたのは、羽柴秀吉が天下統一へと進んでいく時代から、関ヶ原の戦いを経て徳川政権が成立する時代にかけてです。まさに、戦国の終わりと近世の始まりをまたいで生きた武将でした。
平野長泰の生涯と主な出来事
平野長泰の生年は永禄2年(1559)、寛永5年(1628)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
尾張津島に生まれ、秀吉に仕える
平野長泰は尾張(現在の愛知県西半部)津島の出身で、初名は長勝といいました。通称は権平、本姓は清原とされています。
長泰が豊臣秀吉に仕えたのは、天正7年(1579)からのこと。この時点ではまだ秀吉は天下人ではなく、織田信長の有力家臣として各地を転戦していた時期です。長泰はその秀吉のもとで武将としての歩みを始めたのでした。

賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の一人に
平野長泰の名を最もよく伝えるのは、やはり天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでしょう。本能寺の変ののち、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が表面化し、近江(現在の滋賀県)・越前(現在の福井県北部)方面を舞台に争いが起こりました。
賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が4月20日に大垣から急ぎ引き返し、翌21日早朝、佐久間盛政軍を賤ヶ岳で撃破、さらに柴田勝家を越前へと敗走させました。このとき秀吉方で特に功名をあげた若い武将たちが、のちに「七本槍」として知られるようになります。
その顔ぶれとして、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元(かたぎり・かつもと)、糟屋武則(かすや・たけのり)、そして平野長泰の名が挙げられます。

戦功により加増され、大和田原本へ
長泰は賤ヶ岳の戦いの功によって3,000石を与えられました。さらに文禄4年(1595)には加増され、大和国(現在の奈良県)十市郡で5,000石を領し、田原本(たわらもと)を拠点とするようになります。
関ヶ原の戦いで東軍に属する
豊臣秀吉の死後、政局は再び大きく揺れます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、平野長泰は東軍に属し、のちに徳川家康に仕えました。
秀吉に仕えた武将の中には、西軍についた者も少なくありませんでした。その中で長泰が東軍についたことは、のちの平野家の存続にとって大きな意味を持ったと考えられます。戦後、長泰は所領を安堵されました。
大坂の陣では、江戸で留守居を命ぜられています。
70歳で死去
平野長泰は寛永5年(1628)5月7日、70歳で亡くなりました。戦国末期に秀吉のもとで出世し、関ヶ原を経て江戸初期まで生きた長寿の武将だったといえるでしょう。
その後、子孫は田原本で交代寄合(こうたいよりあい、知行高は1万石未満でありながら大名並みの待遇を得る)として江戸幕府に仕えました。
まとめ
平野長泰は、賤ヶ岳七本槍の一人として知られるだけでなく、豊臣から徳川への時代の変化を生き抜き、家を残した武将でもありました。秀吉の近習として頭角を現し、その後も時代に応じて立場を変えながら生きたその歩みは、戦国から江戸初期への移り変わりを考える上でも興味深いものがあります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)











