はじめに-稲葉良通とはどのような人物だったのか
戦国時代の美濃に、「美濃三人衆」と称された有力武将たちがいました。その筆頭格ともいえるのが、2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する稲葉良通(いなば・よしみち、演:嶋尾康史)、のちの稲葉一鉄(いなば・いってつ)です。
若くして父と兄を失い、僧から武士へと還俗(げんぞく)。土岐氏、斎藤氏、そして織田信長(演:小栗旬)へと主君を替えながら、美濃の命運を左右する決断を重ねました。
武勇のみならず文才にも優れたと伝わる良通の生涯を、史料に基づいて丁寧にたどります。
『豊臣兄弟!』では斎藤龍興(さいとう・たつおき、演:濱田龍臣)の才覚に疑問を持つ人物として描かれます。

稲葉良通が生きた時代
16世紀の美濃国(現在の岐阜県中南部)は、守護・土岐氏の衰退と、斎藤道三による下剋上を経て、戦国大名の勢力争いの最前線となっていました。
西濃地方では、有力国衆が独自の勢力を築きます。稲葉良通、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家直元(うじいえ・なおもと)のいわゆる「美濃三人衆」です。
美濃三人衆は斎藤氏に仕えながらも、強固な地域基盤を持ち、情勢に応じて大胆な決断を下す存在でした。永禄10年(1567)、織田信長の美濃攻略に内応したことは、戦国史の大きな転換点となります。
美濃三人衆の動きは、信長の天下布武を支える重要な一歩でした。
稲葉良通との生涯と主な出来事
稲葉良通は永正12年(1515)に生まれ、天正16年(1589)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
僧から武士へ
稲葉良通(のちの一鉄)は、永正12年(1515)生まれ。幼名は彦六(六郎とも)といいました。
長良の崇福寺に入り僧となりますが、大永5年(1525)、近江浅井氏の進攻を迎え撃った父・通則と5人の兄が戦死。これを受けて還俗し、家督を継ぎました。
この劇的な転機が、一鉄の戦国武将としての出発点となったのです。
美濃三人衆として斎藤氏に仕える
良通は土岐頼芸(とき・よりなり)に仕え、のち土岐氏滅亡後は斎藤道三・義龍・龍興に仕えます。安藤守就、氏家直元とともに「美濃三人衆」と呼ばれ、西濃地域に独自の勢力を築きました。
永禄10年(1567)、敵対していた織田信長の美濃攻略に際して三人衆は内応。これが稲葉山城(のちの岐阜城)落城の決定打となり、美濃は信長の支配下に入ります。
良通は以後、信長に仕え、美濃曾根城を居城としました。

信長配下としての活躍
信長に従った良通は、姉川の戦いをはじめ浅井・朝倉氏との合戦で功績をあげます。その後、美濃清水城へ移り、信長政権下で重きをなしました。
信長と安藤守就が対立した際には、良通は信長側につき、兵を出して安藤氏を滅ぼしています。かつての「三人衆」の結束は、ここで崩れることになるのです。

信長との逸話
良通には、文才を示す逸話も伝わります。信長に疑いをかけられ、茶室で討たれかけた際、床の間に掛けられた虚堂(きどう)の墨蹟を読み解きながら、自らの無実を訴えたという話です。信長はこれに感心し、疑いを解いたと伝えられます。
史実かどうかは別として、良通が「文」と「武」を兼ね備えた人物として記憶されていたことを示す逸話でしょう。
本能寺の変後と晩年
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が横死。良通は急ぎ美濃へ戻り、国内の諸寺社に制札を出しました。この動きが羽柴(豊臣)秀吉の疑念を招いたとも伝えられます。
その後は秀吉に従い、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として奮戦。秀吉が関白に就任すると、良通は三位法印に叙せられたと伝わります。
天正16年(1588)11月19日、美濃清水(みのきよみず)城にて死去。73歳(または74歳)。法号は清光院一鉄宗勢。美濃大野郡長良の月桂院に葬られました。
まとめ
主君を替えながらも勢力を保ち続けた稲葉良通の姿は、戦国期の国衆の典型ともいえます。同時に、武勇と教養をあわせ持つ人物として後世に語り継がれました。
美濃三人衆の中で、最後まで生き残ったのが良通でした。その存在感は、戦国美濃の象徴ともいえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











