
天正10年(1582)6月2日。天下布武を標榜し、それがほぼ実現した段階で、織田信長が突如、この世を去りました。享年49。信長を死に追いやったのは、織田家中にあって、羽柴秀吉と出世競争を繰り広げていた明智光秀でした。
NHK大河ドラマでは、1965年の『太閤記』から2023年の『どうする家康』まで16作で本能寺の変が描かれ、『豊臣兄弟!』で17回目の「本能寺」が描かれることになります。大河ドラマの歴史の中で、これだけ頻繫に描かれる「歴史事件」はほかにありません。
「大河ドラマは壮大なるエンターテインメントである」と考える当欄では、過去の大河ドラマで描かれた「本能寺の変」を振り返っていきたいと思います。大河ドラマで初めて「本能寺の変」が描かれたのは、1965年の『太閤記』になります。今から61年前の作品ですが、そこから始めたいと思います。まずは、基本史料として『信長公記』の描写を振り返りたいと思います。
既に信長公御座所 本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。信長の御小姓衆も、当座の喧曄を下々の者共仕出し候と思食され候の処、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打入れ候。
是は謀叛歟、如何なる者の企ぞと御諚の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。(中略)
信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、其後御鑓にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引退き、是迄御そばに女共付きそひて居り申候を、女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ、追出させられ、既に御殿に火を懸け焼き来り候。御姿を御見せ有間敷と御食され候歟、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引立て無情御腹めされ……。(後略)
明智軍が本能寺の周囲を取り巻いた当初、信長の小姓らは、中間らの喧嘩騒ぎだと思ったようです。ところが、鬨の声をあげた兵が境内に乱れ入り、鉄炮も撃ち込まれた段階で、
信長「これは謀反か。如何なる者の企てぞ」
森蘭丸「明智が者と見え申し候」
信長「是非に及ばず」
というやり取りがあったことが記されていますが、このやり取りが「本能寺基本パターン」になりますので、記憶に留めてほしいと思います。
信長は、まずは弓を取り、2、3矢射ったものの、弦が切れたため、鑓を手に戦ったようです。ところが、肘に鑓傷を受けたため、引き退くことを決意。この段階で、そばに仕えていた侍女らに逃げるように促します。既に御殿には火がかけられ、信長は奥に入って、自刃するということになります。
『信長公記』では、桶狭間合戦に挑む際に、信長が「人間五十年。下天のうちをくらぶれば~」で知られる幸若舞の『敦盛』を舞ったことが記されていますが、本能寺の変の記述には、『敦盛』を舞ったとは書かれていないことにご留意ください。もちろん信長正妻の濃姫(帰蝶)が本能寺に滞在していたという記述もありません。
大河ドラマの本能寺の変の描写では、信長の小姓として森蘭丸が登場します。作品によっては、蘭丸の弟森坊丸、森力丸も姿をみせます。いずれも『豊臣兄弟!』で信長重臣として第1回から登場している森可成(演・水橋研二)の息子になります。
彼ら信長の小姓らも明智光秀軍に攻められた際に討ち死にしていますが、『信長公記』には、討ち死にした人々の名前が列挙されています。あまり目にすることもないと思いますので、彼らの名を記したいと思います。
〈御厩より切って出で討ち死に〉
矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五
〈中間衆〉
藤九郎、藤八、岩、新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、小虎若
〈御殿の内にて討ち死にの衆〉
森乱、森力、森坊兄弟三人、小河愛平、高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、大塚又一郎、狩野又九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山田弥太郎、飯河宮松、祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚助、小倉松寿
このうち、湯浅甚助と小倉松寿は、本能寺ではなく町の宿に宿泊していた際に騒動を聞きつけ、明智勢にまぎれて本能寺に入り込み奮戦、討ち死にしたことが特記されています。湯浅甚助は桶狭間合戦にも出陣していた古参。小倉松寿は信長側室の連れ子だったそうです。
「信長の天下」の行く末も見ることなく、信長に殉じた家臣たち。ドラマの中では描かれることのない家臣たちのそれぞれの人生にドラマがあったということに思いを馳せながら、大河ドラマの本能寺の変を振り返っていきたいと思います。
※『信長公記』は奥野高広+岩沢愿彦=校注の角川日本古典文庫版を参照しています。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











