小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。

夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。

多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。

第18回では、小泉家、夏目家それぞれの子供たちと、その教育姿勢をご紹介します。長男を海外留学させたかった八雲、三か国語話せるようにと計画していた漱石。それぞれの奮闘ぶりから親らしさが垣間見えます。

文・矢島裕紀彦

海外留学を念頭に、息子を鍛え上げた八雲

小泉八雲・セツ夫妻には、3人の男の子とひとりの女の子がいた。

八雲は、とくに長男の一雄の教育に意を注いでいた。経済的なこと、結婚が遅かった自分の年齢のこともあって、二番目から下の子は普通に日本の学校で学ばせればよいと考えていたが、長男だけはできれば外国(アメリカかイギリス)へ連れて行き、そこで学校教育を受けさせたいとの思いがあった。一雄自身がこう記している。

晩餐後の父母の会話を傍で毎日聴いていた私は、かつてこのようなことを不思議にも父が申したのを記憶しています。一雄だけは私が教育したい。外国へ連れて行って向うで独立出来るだけの素養を付けて遣りたい。(『父「八雲」の憶い出』)

熊本から神戸を経て東京へ引っ越した翌年、即ち明治30年(1897)の秋から、八雲は一雄に英語を教えはじめた。一雄は明治26年(1893)11月に熊本で生まれているから、まだ4歳になるかならぬかの幼さである。その後、一雄が学齢に達しても、八雲はすぐに日本の小学校に通わせることはしなかった。日本の学校教育は覚えさせることが主体で想像力を養いにくい、という見方もしていたようだ。少し遅れて尋常4年級から小学校に通わせたが、それでも、自分の傍らになるべく長く置くように努めたという。自身の仕事の合間を縫って、一雄に読書、作文、英習字、算数などを教えると同時に、体操や水泳などの運動指導も怠らなかった。こうしたことが、八雲が没するまで(一雄の10歳10か月まで)続くことになる。

八雲の水泳や鉄棒の個性的な指導ぶりについては、先に述べた通りだが、もっと風変わりだったのは、綱の昇り降りの鍛練だったかもしれない。

これは、八雲の友人で米国海軍士官のマクドナルドの推奨もあって取り入れられた運動で、足をからめることなく、腕だけで綱をたぐって昇り降りする。手繰る綱は、器械体操の用具とともに自宅の裏庭に設置された運動用の高いブランコの綱であった。

八雲は一雄の傍らについて、昇るときは「ハンド、オーヴァー、ハンド」、降りるときは「ハンド、アンダー、ハンド」と、励ましとも号令ともとれる声をかけた。

時にずり落ちて手の皮を擦りむいたりする一雄に対し、八雲は、繰り返しこんな言葉を言い聞かせたという。

「一度は海を渡って外国へ行かねばならぬ一雄だ。途中船が難破しても、この綱を昇り降りする素養があれば命が助かることもある。水泳と、綱を手繰っての昇降とが出来る者ならば、海で遭難した場合でも自らを救い得ることが多い。また船酔いを避けるには、ブランコの練習が第一であるからこれも盛んにやっておけ」

長男の海外留学は是が非でも実現したいという強い思いが、ここにも現れている。

八雲は海と船の旅を愛し、長い航海でも船酔いすることはなかった。来日途中、海が大荒れで甲板のものが波にさらわれてしまうほどの騒ぎとなり、水夫たちが皆船酔いに苦しんでいても、八雲ひとりは平気で、いつもと同じように食事の催促をして驚かれたという。

ひょっとすると、八雲自身、少年時代、随分とブランコあそびに興じた経験があって、それを船旅に強い自分と結びつけていたのかもしれない。

ちなみに、「器械体操の名人」だった夏目漱石は、ブランコでも周囲に抜きん出ていたらしい。大学予備門(のちの一高)の同級生だった瀧口了信が、回想記『予備門の頃』に記したところによれば、当時、一ツ橋にあった大学予備門の北側に接する土地が校有地となり、そこに、非常に高いブランコが作られて、

夏目君がそれに乗るのが一番上手であった

というのである。

八雲説が正しければ、漱石は船にも強そうなものだが、ことはそう単純ではない。欧州へ向かう汽船の中で、留学生仲間中、もっとも船酔いに苦しんだのは、他ならぬ漱石であった。洋食ばかりの食生活で腹具合も悪くなっていた。

航海途中、香港から高浜虚子へあてた手紙(明治33年9月19日付)に曰く。

航海は無事に此処まで参候へども下痢と船酔にて大閉口に候。(略)洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮屈千万一向面白からず、早く茶漬と蕎麦が食度候。

横浜出航から12日目、船酔いに苦悶しながら早くも故国の味が恋しい漱石なのである。

なお、八雲が切望した長男・一雄の海外留学は、残念ながら、八雲と恩人マクドナルドの死で実現することはできなかった。

子供たちの可能性を広げた漱石

漱石と鏡子は子福者だった。夫婦の間には、5人の女の子と2人の男の子、計7人の子どもがいた。ただし、五女・ひな子は夭逝してしまったため、無事に大きくなったのは6人である。

ひな子が亡くなったのは1歳半のとき。よちよち歩きで猫の墓参りの真似をし、猫に献じる水を自分も飲んでしまうような、そんな無邪気でおしゃまな姿を見せはじめた矢先であった。それが、何のまえぶれもなく、食事中にひきつけのように倒れて、そのまま突然死してしまった。漱石は強い衝撃を受け、自分の精神にもひびが入ったような深い悲しみを味わったのだった。

明治という新時代を迎えて、外国語を身につける必要性を強く感じ、漱石はふたりの男の子、純一と伸六を暁星付属小学校に入学させている。「あすこは生徒も上品の子が多いし、小学校から外国語(フランス語)をやるし、制服もかわいい」と言って、漱石自ら出向いて規則書をとってくるほどの熱の入れようだった。

漱石の目論見では、小学校ではフランス語を、中学では英語を習わせ、高校ではドイツ語を教わる。そうすると、大学へ行く頃には、息子たちは英独仏3か国語に通じるようになっている。そんな理想像を思い描いていたらしい。

まずはフランス語ということで、息子たちが小学校から帰ってくると、漱石は息子たちを書斎に呼び、自らフランス語を教えた。ところが、息子たちは遊びたい盛りで身が入らない。漱石から「バカヤロウ」を連発される羽目になった。鏡子が「相手は子どもじゃありませんか。そんなにバカバカと叱ってらっしゃる間に、できなけりゃ親切に教えたらいいでしょうに」と取りなし、漱石も以降は態度を改めることになった。

女の子の学校に関しては、漱石は鏡子に任せ切りで、上の二人は女子大学の付属へ、下の一人は双葉女学校へ入学させたという。漱石がアドバイスしたのは、長女の筆子がはじめ琴をやっていたのを、バイオリンやピアノの方がいいのではないかといって変わらせたくらいのことだった。その後、漱石は小説『三四郎』の単行本の印税400円を充てて、当時10歳の筆子のためにピアノを購入している。

当人が勉強したければ、女の子だからといって、漱石は止めだてしたりはしなかった。三女の栄子は女学校でフランス語を勉強したが、それは「お父様が薦めて下さったから」だと、のちのちまで周囲に語っていた。栄子はその後さらにフランス語を勉強し、検定試験にも合格し、フランス語の教員免許まで取得したという。

純一満9歳、伸六が8歳目前のときに漱石は病死し、漱石の思い描いた未来図も消滅した。ただ、思わぬ道筋が続いていた。純一が、昔、漱石が筆子のために買ったバイオリンを、偶然に蔵の奥から見つけ出したのをきっかけにひとりギコギコと弾きはじめ、どうせやるならと本式に習いはじめた。そうして、中学卒業後、バイオリンを手に長くヨーロッパに遊学することになった。その下地は、やはり漱石のつくり上げたものであったと言えるだろう。

八雲の幼い遺児たちに手を差し延べたのは、前記のマクドナルドばかりではなかった。八雲の早稲田大学時代の教え子で書家の会津八一もそのひとり。長男・一雄や三男・清を早稲田中学の英語教師として教え、小泉家の表札なども書いた。清が中学時代に描いた絵に才能を感じ、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学する前の半年間、生活を共にしてもいる。

一雄はその後、早稲田大学英文科へ進学。次男の巌は、セツの養家である稲垣の姓を継承して稲垣巌となり、岡山の第六高等学校を卒業し、京都帝国大学へ進んだという。

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)

 

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