はじめに-「天明の飢饉」とはどのような出来事だったのか
江戸時代に起きた三大飢饉の一つ「天明の飢饉(てんめいのききん)」は、1780年代前半から後半にかけて、特に東北・関東地方を中心に甚大な被害をもたらした大飢饉のことです。
冷害と浅間山の噴火などがもたらした自然の猛威に加え、当時の政治・経済体制が複雑に絡みあった結果、多くの人命が失われました。最終的な死者数は90万人以上にものぼったといわれています。
この記事では、そんな「天明の飢饉」についてご紹介します。

広重『諸国名所百景 信州浅間山真景』,魚栄. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1309816
目次
はじめに-天明の飢饉とはどのような出来事だったのか
天明の飢饉はなぜ起こったのか
この出来事の内容と結果
「天明の飢饉」その後
まとめ
天明の飢饉はなぜ起こったのか
なぜ、これほどまでに深刻な飢饉が広がったのか……。「天明の飢饉」は、単なる自然災害では語りきれません。冷害や噴火などの天候異変に加え、当時の社会制度や政治の在り方が複雑に絡みあっていました。
冷害と「やませ」による凶作
天明の飢饉が本格化したのは、天明2年(1782)以降の数年間です。特に天明3年(1783)は、夏でも綿入れが必要なほどの寒冷な気候が続き、東北太平洋側は「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹き荒れました。
その影響で稲は立ち枯れ、特に山間部ではまったく収穫が得られない地域も出てきたのです。

浅間山の噴火と気候異常
天明3年(1783)7月には、現在の長野県と群馬県の境にある浅間山が大噴火し、甲信越から奥羽にまで降灰被害が広がり、冷夏となりました。
自然災害だけではない、社会制度の影響
飢饉の被害が深刻化した背景には、封建的な支配体制や年貢制度の存在も大きく関わっていました。多くの大名は三都(江戸・大坂・京都)の商人から借財しており、凶作にもかかわらず、年貢米や備蓄米を江戸などに送らざるをえませんでした。その結果、本来領内に残すべき食糧が不足し、飢えをさらに加速させたのです。

さらに、幕府は米価の下落を防ぐため、空米や過米切手の禁止などの措置を講じましたが、これがかえって大名たちの米の輸送を促進する要因となりました。幕府領・大名領を問わず、江戸・大坂への廻米や商品流通の統制、専売制の強化が進められた時期でもあります。
こうした状況の中、農民たちによる一揆や打ちこわしも頻発し、天明の飢饉は単なる自然災害にとどまらない、社会構造そのものが生んだ惨事として歴史に刻まれることとなりました。
この出来事の内容と結果
「天明の飢饉」で起こったのは、農作物の不作にとどまりません。日常生活の崩壊、命の危機、そして社会秩序の揺らぎへと広がっていきました。ここでは、その被害の実態と影響を見ていきましょう。
餓死・病死・逃散が広がる
最も被害が大きかった津軽藩では、天明3年(1783)から天明4年(1784)にかけて約8万人が餓死や疫病で命を落としました。八戸藩でも人口の半数近くにあたる3万人以上が死亡。流浪逃亡も相次いだようです。
一部地域では人肉を食べざるを得ない凄惨な状況となり、史料にもその様子が記録されています。
治安の悪化と民衆の暴動
米価の急騰や極度の物資不足により、各地で打ちこわしや一揆が頻発。都市部だけでなく農村でも、米の供給を求める暴動や穀商への襲撃が起きるなど、社会不安が広がっていきました。
社会的弱者に集中した被害
飢饉の影響は、貧農や日雇い、奉公人などの立場の弱い人々に集中しました。蓄えも少なく、流通する米を買う力もない人々が最初に飢えの犠牲となったのです。
「天明の飢饉」その後
未曽有の飢饉を経験した幕府と諸藩は、何を学び、どのように立ち向かったのか。その後の政策や改革は、後世の防災・救荒対策にもつながっていきます。
幕府や諸藩の対策
幕府は餓死や打ちこわしを防ぐため、「七分積金(しちぶつみきん、備荒貯蓄のこと)」などの備荒政策を開始。大名にも囲米(かこいまい、備荒用または軍事用、あるいは米価調節を目的として米を貯蔵すること)を義務づけました。諸藩でも義倉の設置や米の備蓄など救荒対策が進められたのです。
農政改革のきっかけに
天明の飢饉がこれほどの惨事となった原因は、天候不順だけではありません。各地の農村では、過酷な年貢の取り立てが限度を超え、農業生産の基盤そのものがすでに疲弊していたことも一因です。
しかし、そのような中でも、農業の再生と農村の立て直しを柱とした藩政改革を進めていた藩もありました。上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)の米沢藩と松平定信の白河藩です。この2つの藩では、餓死者は出なかったと伝えられています。
天明の飢饉は、多くの犠牲と引き換えに、農政の在り方を問い直す契機ともなったのです。

田沼意次の失脚と寛政の改革
民衆の不満は政治への批判にまで広がり、老中・田沼意次は失脚。その後、松平定信による「寛政の改革」が始まるなど、天明の飢饉は江戸時代中期の大きな転機の一つとなりました。

まとめ
天明の飢饉は、冷害や噴火など自然災害に加え、封建的な社会制度や政治の未熟さがもたらした大惨事でした。人びとの命と暮らしを守るための備えと制度が、いかに重要かを痛感させられる出来事でもあります。
この経験は、後の農政や改革、災害対策の礎となりました。歴史を通して、私たちが今に学ぶべき教訓のひとつといえるかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『デジタル大辞泉』(小学館)
