内閣府が発表した『高齢社会白書』(2023年)によると、暮らし向きについて心配がない 65歳以上の者は68.5% だった。経済的に心配がなくても、社会から隔絶してしまえば、様々な問題が起こってくる。
直之さん(62歳)は、コロナ禍の2年前に、新卒時代から勤務していたIT関連の企業を定年退職した。それから1年半、酒に溺れる生活だったという。定年は、朝から酒を飲む自由を得ることでもある。それまでのキャリアについて伺った。
名門進学校から、一流大学に進学できなかった挫折
直之さんは、現役時代の仕事について「会社の業種はおおまかに言えばコンサル。システムの開発ほか、デジタル系にまつわるいろんな仕事をやっていた」という。
「新卒で入った時は20人くらいで、古い雑居ビルに入っていたのに、あれよあれよと規模が大きくなっていき、定年の頃には1000人以上になっていった。海外の支社も合わせると、もっといると思う。まさか、落ちこぼれだった僕を拾ってもらった会社が、ここまで大きくなるとはね」
大学は都内の私立大学の工学部だった。偏差値は中の下といったところ。大学名で足切りされるような学校だったという。
「僕は東大合格者を何人も輩出する、関東近郊の県立の名門進学校の出身。それなのに、私立の中堅大学にしか行けないっていうのは屈辱だったわけ。親に浪人させてくれって泣いて縋(すが)ったけれど、親父が“受かったところに行け”と。それでもゴネていたら、“現役で勉強できないやつが、浪人でできるって話があるか”と怒鳴られた」
父は電気系の国立大学を卒業し、公務員として公共の利益に人生を捧げた人だったという。
「かといって、固いだけでもなく、一風変わっていて、“動物園に行くぞ”というから、喜んでついて行ったら、競馬場だったこともあったな。僕の兄が高校生の時に地元のバーでDJやって酒飲んで、停学処分になった時も“人生勉強だ”って許してくれて」
直之さんの父は、昭和2年生まれだという。物心ついた頃から、戦争だった世代だ。
「18歳の時に終戦を迎えているんだよね。戦争中のことは一切話さなかったけれど、僕にとっての伯母が東京大空襲で死んでいる。父は誰かに本気で殺されかけた経験を持っているんだ。だから人生の覚悟が僕とは違うんだろうね」
父に浪人を反対された直之さんは、不本意ながらも受かった大学に進学する。当初は「仮面浪人してやる」と思っていたが、その決意は1週間で消えたという。
「だって、大学が楽しいんだもん。女の子はいるし、勉強はそんなにキツくないし。都心にある大学だから、バイトもし放題。電車で1時間かかる家には帰らないまま、ガールフレンドや友達の家に泊まり歩き、遊び倒していた」
【就職は大学名で門前払い、夜の世界に飛び込み、運をつかむ……次のページに続きます】