はじめに-淡谷のり子とはどんな人物だったのか
淡谷のり子(あわや・のりこ)は、『別れのブルース』『雨のブルース』などを歌いヒットさせた昭和時代の歌手です。60年以上にわたって、歌手として活躍しています。
「ブルースの女王」とも呼ばれ、戦後の歌謡界では笠置シヅ子や美空ひばりのよき相談相手だったと言われていますが、実際の淡谷のり子はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
連続テレビ小説第109作『ブギウギ』では、淡谷のり子をモデルにした茨田りつ子(演:菊池凛子)が、笠置シヅ子をモデルとする花田鈴子(演:趣里)に歌への憧れを抱かせ、生涯の良きライバルとして競い合い、支え合いながら芸能界を生きていく様子が描かれます。
目次
はじめに―淡谷のり子とはどんな人物だったのか
淡谷のり子が生きた時代
淡谷のり子の足跡と主な出来事
まとめ
淡谷のり子が生きた時代
淡谷のり子は、明治40年(1907)8月12日に生まれます。この年、日本の就学率はおよそ96%に達していました。そうした背景から、義務教育が6年に延長された年でもあります。そんな時代に、淡谷のり子は産声を上げ、情感のある歌声を届けていきます。
淡谷のり子の足跡と主な出来事
淡谷のり子は、明治40年(1907)に生まれ、平成11年(1999)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
裕福な呉服店の長女として誕生するも、生家が没落…
淡谷のり子、本名・淡谷のりは、明治40年8月12日に青森県青森市浜町にある呉服店・大五河波屋(だいごあわや)の長女として誕生します。順風満帆に成長するのり子でしたが、明治43年(1910)の青森の大火を発端に、生家は没落。大正12年(1923)には父母が離婚し、母と妹とともに上京します。
東洋音楽学校を主席で卒業し、歌手デビュー
その後、東洋音楽学校(=現在の東京音楽大学)のピアノ科に入学します。のちにオペラ歌手を目指して、声楽科へと編入しました。学生時代には、妹が目を患ったことをきっかけとして、「霧島のぶ子」という名前を使って、画家のヌードモデルをしながら、一家の生計を助ける活動もしていたのです。
昭和4年(1929)、のり子は首席として声楽科を卒業します。女性の首席というのは、東洋音楽学校において、初めてのことでした。同年春には、「オール日本新人演奏会」で舞台に立ち、「10年に一度のソプラノ」と褒め称えられたそうです。
その後、ポリドールレコードに入社。『夜の東京』をリリースし、一躍流行歌手となります。しかし、「流行歌を歌った」ことが原因で、母校の卒業生名簿から名前を削られてしまいました。当時、流行歌手の地位は低かったのです。その後、昭和6年(1931)にコロムビアレコードへと移籍。移籍後に出した『私此頃憂鬱よ』(作曲:古賀政男)がのり子初のヒット曲となります。
同じ年、ジャズピアニストの和田肇(はじめ)と結婚しますが、4年後に離婚するということもありました。
【『別れのブルース』が大ヒットとなる。次ページに続きます】