『別れのブルース』が大ヒットとなる
昭和12年(1937)に出した『別れのブルース』が大ヒット。翌年に出した『雨のブルース』も売れたことによって、「ブルースの女王」と呼ばれるようになりました。この2曲の作曲は、当時、新進作曲家であった服部良一が手掛けています。
しかし、その後、日中戦争が本格化し洋楽が禁じられ、『別れのブルース』や『雨のブルース』は発売禁止となります。他の歌手たちは、軍歌や軍国歌謡を歌いましたが、のり子はそれを拒絶しました。
この時代、女性の服装はモンペ着用が奨励され、「贅沢は敵だ」という風潮がありました。しかし、のり子は、派手な化粧や服装をいくら注意されても、「化粧や派手な服装は歌手の戦闘準備であって贅沢ではない」と言い切っていたそうです。
軍隊慰問も無料奉仕で
のり子には、「好きな歌を歌うことを弾圧する軍から金をもらいたくない、無料奉仕なら何の歌を歌おうとかまわないではないか」という信念があったため、軍隊慰問へ行っても金銭を受け取らず、無料で各地を回りました。
『別れのブルース』や『雨のブルース』などの曲はもの悲しいため、戦時下で歌うのには似つかわしくないとの指摘がありましたが、兵士たちには熱烈な人気があったので、のり子は歌い続けたと言います。このとき、監視の将校たちは居眠りをしたり、席を外すなどして、見て見ぬふりをすることで協力していたようです。
戦後、再び花開く
昭和20年(1945)、コロムビアレコードから一方的に契約を解除されます。不幸は続き、5月の空襲で、のり子は自宅を失いました。
翌年、コロムビアレコードから再契約の申し込みがありましたが、それを拒否して、テイチクと契約しました(その後、ビクター、次いで東芝へと移籍)。この辺りに、のり子の一貫した芯の強さが感じられます。
昭和23年(1948)には、『嘆きのブルース』『君忘れじのブルース』と立て続けにヒット曲を歌います。この頃から、『枯葉』や『愛の讃歌』などシャンソンに心惹かれ、歌うようになっていきました。
昭和46年(1971)には、いずみたくと12人の作詞家によるLP『昔、一人の歌い手がいた』を発売。日本レコード大賞特別賞を受賞しています。翌年には、紫綬褒章も受章しました。
一方で、昭和54年(1979)からは渋谷の「ジァンジァン」に出演。ここは新人歌手の登竜門的な役割を担っていた小劇場でしたが、「死ぬまでステージに立つ歌手でいたい」というのり子の思いを叶えるためのものでした。足が不自由になってしまうまでの10年以上もの間、この劇場で歌を歌い続けたのです。
現役最高齢で新曲を発表
80歳を迎えた、のり子は、全国80箇所のコンサートを行ないます。その後も、現役最高齢となる85歳で新曲『揺り椅子』をリリース。テレビのものまね番組では審査員として出演し、遠慮のない毒舌が人気を博し、芸能界の御意見番的存在となりました。
その後、平成5年(1993)12月に一過性脳溢血で倒れ、体調不良を理由に休養宣言。以降、歌手としての活動は見られなくなりました。平成11年(1999)9月22日、老衰のため亡くなっています。
まとめ
のり子の人生は、すべてを歌にかけてきたようなものでした。戦中であっても周囲の圧力や声に流されることなく、自己の信念を貫き通した姿勢は、心をうつものがあります。
そんな彼女の人生は『じょっぱり』というタイトルで昼帯のドラマが制作されたことがあります(東海テレビ制作、1979年1月〜9月放映/全180回)。「じょっぱり」とは津軽弁で“頑固者”という意味。彼女の生き様を表すような言葉なのかもしれません。
文/京都メディアライン
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(2010年刊、日外アソシエーツ)
『20世紀日本人名事典』(2004年刊、日外アソシエーツ)
『日本代百科全書』(小学館)
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