頼家の娘・竹御所に北条政子が託した「頼朝の血脈」
『鎌倉殿の13人』第47回では、承久の乱に際して、北条政子(演・小池栄子)が御家人たちを前にして演説する場面が描かれた。後鳥羽上皇が発した「北条義時追討」の院宣に少なからず動揺する御家人たちの心を突き動かした歴史的な名場面だ。
初代鎌倉殿源頼朝の正室という立場をバックボーンとした「尼将軍」として、鎌倉武家政権の危機を救った北条政子だが、彼女には自らの後継者と目する女性がいた。源頼家の娘・竹御所(たけのごしょ)だ。当欄を担当しているスタッフがかつて編集した『ビジュアル版逆説の日本史3 中世編』(小学館刊)所収のショートコラム『頼家の娘・竹御所に北条政子が託した「頼朝の血脈」』がわかりやすいので、そのまま引用したい(※)。
夫と四人の子供全てに先立たれた北条政子は晩年、頼家の娘・竹御所を溺愛した。頼家の息子たちは全員非業の死を遂げているが、竹御所は女子ということで生き永らえたのだ。
頼家に続いて実朝が暗殺されてしまうと、北条氏の血統に連なる将軍候補は不在となり、やむなく九条頼経が鎌倉に迎えられた。
政子にとって竹御所は夫・頼朝の血を引く最後の人間。竹御所と頼経を結婚させ、二人の間にできた子に将軍職を継がせることで、源氏の血脈を残そうと考えたのだ。政子はこの結婚を見届けることなく世を去るが、竹御所は政子の四十九日や三回忌、父の追善供養などを取り仕切るなど、将軍家の仏事や神事に深く関わった。頼朝の孫ということで、御家人からも慕われ、人々は政子の後継者と目していた。
彼女が頼経と結婚したのは、寛喜二年(1230)のことだ。頼経の十三歳に対し竹御所は二十八歳だった。二人の間の子により将軍家が継承されていれば、後の歴史は変わっていたかもしれない。ところが、竹御所は難産の末に天福二(1234)七月二十七日に死去してしまうのである
頼家の娘・竹御所の誕生は、建仁二年(1202)。父・頼家が北条氏によって惨殺される二年前だ。生母は諸説あるが、竹御所の墓所が比企館のあった妙本寺にあるので、頼家嫡男一幡同様に若狭局(『鎌倉殿の13人』劇中ではせつ/演・山谷花純)かと思われる。
竹御所は、建保四年(1216)三月に『吾妻鏡』に、〈故金吾将軍(頼家のこと)の姫君〉として初登場する。実朝御台所に謁し、その猶子になったという記事だ。このとき、竹御所は十四歳。御所を訪ねたのは、政子の命だったという。頼家の息子たちはすべて僧籍に入っていたが、娘の竹御所は祖母である政子の目の届く範囲で暮らしていたと思われる。
【祖母政子の死後に増える『吾妻鏡』の記事。次ページに続きます】